みすず書房

新刊紹介

「虐待が奪いゆくもの」より抜粋

2021年9月10日

(本文からの抜粋を以下お読みになれます)

野村俊明

医療少年院に当直していたある晩、私は女子寮からの電話で起こされた。私が担当している少女が落ち着かないので来てくれという。
急いで女子寮に行くと、その少女が大声をあげながら、自室で物を投げ、ふとんやシーツを破ってしまったという。少女は隔離室に収容されていた。「ほら先生がきたよ」と女性教官が声をかけると、少女は素直に指示に従って部屋の真ん中に座った。部屋に入って言葉をかけると、ひどく興奮している様子ではなかったが硬い表情をして涙を浮かべていた。

その少女は医療少年院を出院する日が近づいていた。
早く家に帰りたいと言っていたが、残りがひと月を切ったころから明らかに精神的に不安定になっていた。その17歳の少女にとって、出院して家に帰るのは楽しみであると同時に不安であるのが当然だと私たちは考えていた。

深夜にあれこれやりとりするのはやめ、落ち着いた頃合いを見計らって、明日また話す約束をして退室した。
翌日、話してわかったのは、同居していた義兄から毎日のように性的虐待を受けていたこと、これまで誰にもそれを話していなかったこと、などであった。少女は近ごろ、夜になると当時の光景が頭に浮かんできて、いてもたってもいられない気分になるのだという。性的虐待の様子が生々しく語られたが、聞いていて頭がくらくらして気分が悪くなった。
そのときの感情をどう表現したらいいのか、今でもわからない。怒り、憤り、驚き、悲しみ、同情、嫌悪感、立ち去りたい気分、いろいろな感情が入り混じっていたのだと思う。そして、目の前にいる少女が、そうした仕打ちをうけたにもかかわらず、よくこれだけの健康さを保って私の前にいるな、とも感じた。

義兄からの虐待歴が明らかになり、少女は実家に帰らず、児童養護施設に行くことになった。
児童養護施設は通常18歳までの子どもが対象になるので年齢を考えるとぎりぎりの措置だったが、家庭裁判所や児童相談所も義兄がいる家庭に帰すわけにはいかないと判断したのだろう。本人はこの決定を不満として、それでも実家に帰りたいと言った。

この少女の両親は早くに離婚した。
少女は母親に引き取られたが、母親は児童相談所から養育能力がないと判断され、一時期児童養護施設に措置されていた。その後、母親の元に戻ったが、十分な世話を受けていたとはいえないようだった。
母親はやがて再婚し、義父と義兄との四人家族の生活が始まった。新しい夫はほとんど家におらず、しかしきちんと働かず生活は不安定なままだった。小学生のころから、食事を満足に作ってもらえず、いくらかの金銭を与えられ近くの店で何か買って食べるという毎日だった。義兄の性虐待は小学校低学年のときには始まったらしい。母親は見て見ぬふりをしていたという。
少女は10代の半ばから繁華街に出入りするようになり、やがて風俗店で働くようになった。彼女にとって、義兄の虐待から逃れる唯一の方法であっただろう。頼れる親戚はおらず、学校にも相談できる相手はいなかった。
何回か警察に保護されたのち、少年鑑別所を経て医療少年院に送致されてきた。喜怒哀楽が激しく、双極性障害が疑われていた。

人懐こい少女で診察ではよく話した。将来の夢、好きなタレント、寮生活の不満などが主な話題だった。法務教官たちは、この少女がしばしば決まりを守れず、指導に反発することを心配していた。気分が不安定でかんしゃくを起こすことが多かった。ただ、大きな逸脱はなく時間が過ぎてゆき、出院後のことが話題になる時期が来た。
多くの子どもたちと同様に、少女は親元に帰ることを望んだ。どんなにひどい虐待を受けてきても、大多数の子どもたちは親元に帰ることを望む。帰るとまた虐待や諍いが待っているだろうと思うのだが、これは理屈を超えた何かが働いているとしか言いようがない。
まれに親元には帰りたくないとはっきり主張する少年少女がいるが、彼ら彼女らは精神的な健康度が高い人たちである。家族はしばしば蟻地獄のようなもので、もがけばもがくほど呑み込まれていく。

(…)

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(著者のご同意を得て抜粋転載しています。なお
読みやすいよう改行や行のあきを加えています)