サル痘と疾病捜査官
アリ・S・カーン『疾病捜査官』より、サル痘に関する記述の一部をウェブ公開
2022年7月26日
2020年始めに新型コロナウイルスが世界中に広がって以来、ニュースなどでその名をたびたび耳にするようになったのが、米国疾病対策センター(CDC)だ。本書『疾病捜査官』は、著者のひとりであるアリ・S・カーン氏がそのCDCの通称「疾病捜査官」として、国内外の感染症アウトブレイクと戦ってきた記録である。
カーン氏はCDCで長年にわたり、感染症アウトブレイクの発生時に、現場で情報収集と分析をし、発生源を特定し、感染の広がり方を調べ、対策や予防策を提言する実地疫学の専門家として仕事をしてきた。その間に、「たいていの医師が一生かかって経験するより多くの種類のアウトブレイク」を目にしてきた。本書では、米国南西部のハンタウイルス(二章)、中東のクリミア・コンゴ熱(三章)、ザイール(現コンゴ民主共和国)やシエラレオネのエボラ出血熱(三章、九章)、ザイールのサル痘(四章)、アメリカ国内の鳥インフルエンザ(六章)など、世界各地の感染症アウトブレイクの現場で、自らの身も感染リスクにさらし、ときには迫り来る反政府勢力から逃れながら、「疾病捜査官」の任務に奮闘した体験が描かれている。
パキスタン出身の両親のもと、ニューヨークのブルックリンに生まれたカーン氏は、ニューヨーク州立大学ブルックリン校のメディカルスクールで医学を学び、ミシガン大学メディカルセンターで小児科と内科の研修を受ける。しかしその後進んだのは臨床医ではなく、公衆衛生の道だった。1991年から2年間、CDCのエピデミック・インテリジェンス・サービス(EIS)のフェローシップに参加し、感染症アウトブレイクの調査・分析や監視を実施する「疾病捜査官」としての実務研修を受けた。
CDCでは、先に挙げた新興感染症のほか、バイオテロ対策や世界保健安全保障といった分野の対応にも取り組んだ。2001年にワシントンDCで発生した炭疽菌テロでは、CDC対応チームの「現場リーダー」として最前線での対応にあたった。また2005年にハリケーン・カトリーナがルイジアナ州を直撃した際には、直後に現地入りしてCDCの現地対策本部を立ち上げ、被災地での公衆衛生対応の指揮をとった。
「靴を履きつぶし、事実を探し求め、手がかりをふるいにかける」疾病捜査官の仕事を愛するカーン氏は、アメリカ中西部でげっ歯類由来のサル痘アウトブレイクが発生したときには、現地調査のリーダーの身ながら、チームの指揮は部下に任せ、レンタカーに飛び乗って患者訪問を始めてしまう。そこには、CDCという組織の一員としてだけでなく、ひとりの公衆衛生専門家として、人々の健康を実現したいという思いが垣間見える。そしてアフリカのリソースが不十分な環境でエボラに苦しむ人々がいることや、ハリケーン・カトリーナの被災地で、貧困層の住民が最も大きな被害を受け、市外への避難の手段さえ奪われていることなどについての指摘からは、公衆衛生をめぐる格差に対する静かな怒りが感じられる。序文の「健康を強く願う気持ちは世界のどこでも変わらない」という言葉が重く響く。
原書の初版が刊行されたのは2016年だ。そのため本書には、(2020年版のための序文のほかには)新型コロナウイルスパンデミックにかんする記述はない。しかし2020年、パンデミックが終息しないなかで本書の翻訳を進めていてつねに感じたのは悔しさだ。パンデミック発生以前に書かれた本書のいたるところに、今回のようなパンデミックが起こりうるという、予言めいた警告のメッセージが読み取れるからだ。
飛行機旅行が頻繁に行われるようになった現在、微生物は地球上のどんな場所へでも72時間以内に拡散できる。実際にカーン氏も、2002年に始まったSARS(重症急性呼吸器症候群)アウトブレイクの際、WHOのコンサルタントとして危機対応を支援したシンガポールで、飛行機の国際線を利用したり、ホテルに宿泊したりした少数の「スーパー・スプレッダー」がアウトブレイクの起点になっていたことを突き止めている。そして、感染症への流行に対する事前準備と対応を怠れば、「ただ次のパンデミックを待つだけになる」とも書いている。しかし私たちがカーン氏のような専門家の警告のメッセージを見落とした、あるいは無視してきた結果、「次のパンデミック」が予測どおりに起こってしまったというのが、2020年以降に私たちが直面している現実ではないだろうか。このThe Next Pandemic(次のパンデミック)は、本書の原書タイトルでもある。
ここで米国CDCの「疾病捜査官」を育成するエピデミック・インテリジェンス・サービス(EIS)と、日本の同様の制度について簡単に紹介したい。
米国CDCのEISは1950年に設立された、2年間の実地疫学のフェローシッププログラムで、研修生(EISオフィサー)は研修の一環として現場での調査業務に従事する。現在では感染症やバイオテロなどのほかに、慢性疾患や環境衛生なども含めた公衆衛生全体に対象を広げている。これまでに3600人が修了しており、各州の保健局などの疫学専門家の多くがEIS修了者だ。
日本でも1999年に、国立感染症研究所にEISと同様の「実地疫学専門家養成コース」(FETP)が設置された。これも実務を通して実地疫学のスペシャリストを養成する制度で、医師や歯科医師、薬剤師、看護師などの資格を持ち、公衆衛生分野での一定期間の実務経験がある人を対象としている。感染症アウトブレイクが発生した際の調査や、日常的なサーベイランス(監視)の実施などが主な活動だ。自治体からの派遣要請に応じて、これまでに腸管出血性大腸菌O157の集団感染(2012年)や、鹿児島県での風疹の地域流行(2013年)、院内感染などでアウトブレイク調査を行ってきた。
このFETPは、2020年からの新型コロナウイルス感染症でも、厚生労働省新型コロナウイルス感染症対策本部に設置されたクラスター対策班内の「接触者追跡チーム」として現地調査を行ってきた。2020年10月に発表された活動報告*によれば、新型コロナ感染症の流行が始まった2020年2月末から2020年10月初めまでの期間に、計118事例の調査を行い、14名のFETP研修生が修了生や感染研職員などとともに派遣されたという。派遣先の自治体では、クラスターの発生要因や感染ルートの究明、症例や濃厚接触者のデータベース作成、市中感染での感染源推定などの疫学調査支援、医療機関や福祉施設などでの感染管理対策への助言をおこなった。この接触者追跡チームの具体的な活動について私たちが直接知る機会はあまりないが、テレビやネットのニュースで報じられている新型コロナウイルス感染症クラスターの蔭では、カーン氏と同じ実地疫学の専門家チームが調査にあたっていた可能性がある。
この訳者あとがきの執筆時点で、世界全体ではワクチン接種が進む一方で、ウイルス変異株が広まり、インドでは死者が急増するなど、パンデミックはいまだ予断を許さない状況だ。そして、たとえこのパンデミックが終息しても、それで終わりではないだろう。「ヒトが微生物に感染しなかった時代はこれまで一度もない」とカーン氏はいう。そしてウイルスはつねに変化している。細菌を使ったテロの不安も消えない。「次のパンデミック」を起こさないために何をすべきなのだろうか。本書がそれを考える一助にもなればと思う。
* クラスター対策班接触者追跡チームとしての疫学センター・FETPの活動報告(2)
https://www.niid.go.jp/niid/ja/jissekijpn/9907-fetp-2.html
熊谷玲美
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