早間玲子
本書のII部の元である『ジャン・プルーヴェ──工業生産から生まれる建築のすがた』が1971年に発刊されると、ジャン・プルーヴェは私たち所員三人に丁寧にサインを入れて一冊ずつくださった。はじめのページに、「本書は長い修練の一生の記録である。その道はこれから君たち若者が続けていくのだ。En très grande amitié à Reiko, Si gentille, si compétente et si efficace dans le travail en commun. Ce livre révèle une longue vie de recherche. Que les jeune dont vous êtes continuent. Jean Prouvé」と記された。私は今から丁度半世紀前、彼の最後の建築設計技術事務所であるパリのブラン・マントー通りのアトリエで、6年半の間ジャン・プルーヴェと協働した。
私は1966年末に、正式にはフランス政府招聘日仏工業技術交換留学生としてパリに到着した。前川國男建築設計事務所在籍のまま、翌年早々から、在仏日本大使公邸のインテリアを受注したシャルロット・ペリアンの手描きデッサンを元に、内装の実施設計図(建設用の設計図)を制作していた。ジャン・プルーヴェはペリアンのデザインするインテリアの骨組みとなる素材の選択や構造体の技術をバックアップしていて、ペリアンのアトリエにしばしば立ち寄った。私は、ここで初めてジャン・プルーヴェに出会う機会に恵まれたのだった。
半世紀前のフランスでは未だ日本人への認識は薄く、その上、女性の建築家は指で数えられるほど稀であった。それでも私は、ジャン・プルーヴェからフランス人男性所員とまったく変わらぬ待遇を受けたのだった。日々、プルーヴェと紙の上で対話を交わし、工場に出向いては部品を検査し、建設現場では監理の役目に就いた。
一点の曇りも無い敬虔な気持ちで創る行為を学んだ6年半。日々は充実し、年月はまたたく間に過ぎていった。