みすず書房

済州島・1920年代以前

済州島・1920年代以前

甕の村

 祖父には三男一女があり、ぼくの父は末子だった。一家を支える経済の中心は農業であり、不足がちなものを窯からの収入で補い、質素ながら暮らしはけっこうなりたっていた。けれども1910年に「日韓併合」があり、9年後に三・一独立運動がおこった。そのころにはすでに日本の雑貨品がどっと流れこむようになり、それまでの村の自給自足の経済基盤を根底からつき崩して行った。そして、ぼくが生まれて間もなく祖父母が相ついで他界し、跡を継いだ父の長兄も夭折していた。眷属(けんぞくの離散がはじまり、日本にわたったぼくの父も消息がとだえたままだった。

 金泰生は自らの「眷属」が済州島から日本へと渡った経緯をこう説明している(1)。事実、父方・母方を問わず金泰生の一族のほとんどが1920-1930年代に日本や満洲に向かい、故郷を離れていった。何がこれほど大規模な「眷属の離散」を生じさせたのか。そもそも金泰生より上の世代の人々は故郷でどのように暮らし、そしてなぜその暮らしは立ちゆかなくなったのか。故郷の思い出や離郷の経緯について、金泰生は晩年のさまざまな文章で書きのこしているが、ここでは金泰生が生まれる前の時代に遡って「眷属の離散」にいたる過程をたどってみよう。
 金泰生の故郷は、済州島の南西部に位置する新坪里(シンピョンリである(2)。金泰生の生まれた当時は南済州郡大静面(テジョンミョンに、現在は済州特別自治道西帰浦市大静邑に属す6平方キロメートルほどの村落だ(3)。村から東南の方角には「大静コウル(고을)」と呼ばれるかつての中心地が、そこからさらに西南へ進むと摹瑟浦(モスルポの港がある。村は港のある海岸からは7kmほど離れた中山間地帯にあり、現在の人口は400名ほどである。
 金泰生の本籍地に立つと、周囲にあるニンニクの畑や柑橘類を育てるビニールハウスなど、開墾された耕地が目に入る。北側には「コッチャワル」と呼ばれる済州島特有の原生林が茂っており、南から東に向かって順に摹瑟峯(モスルボン、山房山(サンバンサン)、そして島の最高峰・漢拏山(ハルラサン)を見とおすことができる。
 だが当然ながら、この見晴らしの良い畑の風景は、金泰生が生まれた約百年前と同じものではない。私が見たのは、植民地化や総力戦、解放後の済州四・三事件と南北分断、朝鮮戦争、朴正煕時代の農村開発などを経験するなかで大きく変貌した村の姿である。
 では、金泰生が生まれた頃のこの村は、どのような姿をしていたのだろうか。手がかりとなるのが、朝鮮総督府の製作した五万分の一地形図(1918年)である(4)。金泰生が生まれる6年前の、この一帯の姿が記録されている。

 地図の左端上段に「新坪里」という地名がある。村の北側には「荒地」を示す符号が密集しており、本籍地付近をみると、針葉の独立樹や針葉樹林を示す符号も点在している。おそらく松林を指すものと思われる。1914年に刊行された植物調査報告書によれば、済州島では海岸から標高550メートルまでの地域にクロマツが群生しており、針葉樹のなかでも杉や檜は日本による移植以前は見られなかったという(5)。とすれば、私が立ってニンニク畑とビニールハウスを見わたした場所は、百年前には松林に囲まれていたことになる。
 新坪里はその名からもわかるように、済州島のなかでは比較的新しい時期に生まれた村である。19世紀中ごろから20世帯ほどが集まり暮らしはじめ、1864年に正式に「新坪里」がつくられた(6)。村の人々は農業に従事し、夏は粟、豆、甘藷を、冬は麦を栽培した(7)。柑橘類が主たる作物となるのはずっと後の1970年代以降のことだ。また、一部ではあるが稲も栽培していた。新坪里は、この島のなかでは相対的に土と水に恵まれていたからである。米目当てに摹瑟浦の富豪たちが新坪里の土地を所有していた例もあったという(8)。
 新坪里のこうした利点が生み出した特産品が甕(かめ)であった。村はかつて「オンギパッ=甕の畑」と俗称されており、良質の土と燃料用の薪、さらに窯に吹きこむ風という好条件が揃っていた。甕は穀物やみそ、しょうゆ、また水を蓄えるために欠かせない容器であったため、新坪里や隣接する九億里(クオンリで生産された甕は済州島全域で利用されたという。
 窯を焚く薪がどこから得られたのかを考えるとき、先の地形図が本籍地の周囲に記録していた松林は無視できない。甕の村を支えていたのは、土と風と、そしておそらくは松であった。金泰生も「祖父の代まではぼくの家にも窯があって、農事のあい間にさかんに土器が焼かれていた」こと、また、「それを背負って近隣の村に行商するのは女の仕事だった」ことを回想している(9)。
 金泰生の回想にもあるように、甕の生産と流通は男女で分業されていた。九億里では、甕の生産は15-20名の構成員による「契」(一種の同業組合)により運営され、窯に火入れをするときには女性の接近が徹底的に禁じられた(10)。代わりに流通は全面的に女性に任せられ、牛や馬、荷車、チゲ(背負子)を使って各地に出向き販売した。また、帆掛け船を使って長距離を運ぶこともあり、島の東にある牛島(ウド)まで売りに行った例もあったという。

眷属たち

 この村が金泰生の眷属たちの生活の場であった。ここで留意すべきは、金泰生が「眷属」あるいは「眷族」というときに想定した親族の範囲である。父系血統の親族を重視する陸地とは異なり、済州島には父母両系の親族との縁を重視する伝統があるからだ(11)。この済州島独特の親族概念をあらわす言葉が「クェンダン」であるが、金泰生が「眷属」という言葉を使うときにも、この「クェンダン」の示す親族の範囲を想定していたものと思われる(12)。実際、故郷を離れたのちにも母方の親族と密な付き合いを続けており、小説やエッセイのなかにも母方の親族について詳しく記されていることが多い。
 金泰生の父・金燦貞(キムチャンジョン)は1900年生まれで、冒頭の引用にもあるように三男一女の末子であった(ただし、族譜には名は「賛貞」、生年は1901年と記されている(13))。本貫(14)は光山金氏である。祖父母が40歳前後のときの子であったと推測される。母・金戊生(キムムセンは父よりも5歳年長で、1895年に父・金用平(キムヨンピョン)、母・金一中(キムイルチュン)の長女として新坪里で生まれた。二人の長男として1924年11月27日(旧暦11月1日)に生まれたのが金泰生である(15)。
 戸籍の記録によれば、金泰生の名は「相玉(サンオク)」であった。従兄の名も一人を除き「玉」がつけられており、親族共通の行列字だったのだろう(16)。他方、族譜に記された名は「大生(テセン)」であった。この名は金泰生が日本で専ら使用していた名である(17)。新坪里在住の親族・金明完氏によれば、光山金氏の族譜に登録したのは伯父(の子・大玉(テオクだったという(18)。大玉は戦時期に金泰生と同居していたことがあり、当然この事実を知っていた。このため族譜に「大生」の名で登録したものと思われる。
 祖父の代に遡ると、金泰生の一族は村の共同事業や行政の一端を担う立場にあったことがうかがえる。摹瑟峯にある一族の墓碑には、祖父・金斗杓(キムドゥピョ)が「郷校」の「訓長」を務めていたと記されている。郷校とは朝鮮王朝時代に各郡県に設置された官立の地方教育機関を指し、地方における儒教教育と祭祀の両方を担った。訓長はこの郷校での教師にあたる役職である。大静の郷校に勤め、この地の儒教的知識人ネットワークのなかで一定の地位を占めていたようだ。さらに、村内にある「治水碑」には碑建立の発起者として祖父の兄・金斗柄(キムドゥビョン)の名前もあり、伯父は第4代の里長を務めてもいる(19)。また、後述する土地調査事業により作成された地籍原図には祖父や伯父名義の土地が複数記されている。「質素ながら暮らしはけっこうなりたっていた」(20)のは事実だったようだ。
 しかし、金泰生が生まれる前後の1920年から1925年にかけて、祖父、伯父、祖母が相次いで亡くなった。死因は明らかではないが、一族の大黒柱を失った影響は決して少なくなかっただろう。また、それに先立つ1911-1912年頃には外祖父・金用平の弟もコレラで亡くなっている(21)。前回に触れた猪飼野時代の育ての親「おばさん」の実父である。「おばさん」はその後、金泰生の外祖父・金用平に引き取られて育てられたようだ。
 これら祖父に始まる三代のうち、外祖父と父母の代以下のほとんどの親族が離村して日本へと渡ることになる。はじめは期間限定の出稼ぎであったが、のちに一家をあげての離村へとかわっていった。

朝鮮人労働者の渡航史

 東アジアの激動の近代史は、朝鮮に生きる数多くの人々を奔流のように呑み込み、生まれ故郷の地から引き剥がしていった。金泰生の眷属の最初の出稼ぎをたどる前に、朝鮮人の日本への渡航の歴史をみておこう。
 朝鮮人の労働者としての渡日を制度的に可能にしたのは、1876年に結ばれた日朝修好条規であった(22)。この条約は釜山等の開港や居留地での治外法権などを定めた不平等条約であった。外交官や軍人ではない日本人が朝鮮へと渡ることも可能になり、商人たちは条約の特権で有利に商売をすることができた。そして、朝鮮の開港地で日本人が朝鮮人を雇うことや、また朝鮮政府の許可を得て日本で働かせることも可能となった。日清戦争(1894-1895年)後の1899年に日本政府は中国人労働者を雇うことを制限したが、朝鮮人については雇用を引き続き認めた。このため、多くの朝鮮人たちが日本へと出稼ぎのため渡ることになる(23)。
 朝鮮人の労働者が多く雇われた産業は紡績業や炭鉱業、建設業であった。明治以降の日本は紡績業の育成に力を注ぎ、綿糸紡績業は近代日本を代表する産業へと成長する。この成長を支えたのが、欧米から導入された機械や技術と、若い女性労働者(女工)たちの低賃金・長時間労働であった。紡績会社は競い合って農村へと女工募集人を送り、19世紀の終わりには朝鮮でも女工を募集するようになった。もっとも古い事例として1893年に三重紡績会社が朝鮮で募集した女工を日本国内紡績工場で働かせた記録が残っている(24)。男性の場合は炭鉱で石炭などの採掘を行ったり、鉄道やダム建設などの土木工事の現場で働いたりした。炭鉱労働としては、1897年の佐賀県の長者炭坑が朝鮮人を雇ったのが最初といわれている(25)。なお、この年に朝鮮王朝は国号を大韓帝国に改め、高宗は皇帝に即位した。
 日本は日露戦争(1904-1905年)に勝利すると、第二次日韓協約により大韓帝国を保護国として外交権を奪い、韓国統監府を設置した。以後、韓国政府は条約の締結や旅券の発給などの権限を失った。1905年9月には山口県下関と朝鮮の南東部にある都市・釜山を結ぶ航路(関釜航路)が開設された(26)。日本人が朝鮮へと渡るときには旅券などは必要なく、建設業や鉄道工事を請け負う企業が多くの朝鮮人労働者を雇うルートが確立する(27)。そして義兵戦争などの激しい抵抗を徹底的に弾圧した上で、1910年には「韓国併合に関する条約」を結び、朝鮮を完全な植民地にした。
 韓国併合後、日本へと渡る朝鮮人の数はさらに増えていった。のちに触れる土地調査事業が実施された結果、朝鮮人農民たちのなかには土地を失う者もあらわれた。第一次世界大戦(1914-1918年)が始まると日本は好景気に沸き、工場などの人手が不足した。このため企業は競い合って朝鮮人の労働者を雇い、1915年からの5年間で、在日朝鮮人の人口は2万5000人以上増加することになる(28)。特に紡績業界は朝鮮人女工を引き続き重視した。長野県のある新聞は、女工たちには日本語がわからないという欠点はあるが、安い賃金でよく働き、賃金の値上げを求めてストライキを起こすなどの抵抗をすることもないため、製糸業の人手不足を解消するために積極的に「輸入」すべきであると主張している(29)。

済州島の植民地化

 朝鮮が世界資本主義に組み込まれ、帝国主義的分割のなかで日本の植民地となっていく過程は、済州島の人々にも深刻な影響を及ぼした。日朝修好条規締結後、済州島には日本の漁民の出漁が相次ぎ、島民とのトラブルも頻発した。また、19世紀末にはカトリック教会のフランス人司祭も布教のため来島し、宣教師たちは信徒を獲得する一方で、伝統的習慣を重んじる島民との対立を招いた。さらに大韓帝国政府は財政確保のため火田民(かでんみん)などへの課税を強化した。これらがもたらした矛盾が爆発したのが、19世紀末に済州島で起こった二度の民乱である(30)。
 済州島の中山間地帯では19世紀後半、農地を持たない貧民層が官営牧場地帯を開拓し、牧場田・火田として耕作する慣行が広がっていたが、地方官吏による過度な収奪は1898年の房星七(パンソンチル)の乱を招いた。さらに大韓帝国が牧場田や火田(31)への直接徴税を強行すると、これにフランス人司祭らカトリック教会側の特権濫用への反感も重なり、1901年、大静郡出身の官奴・李在守(イジェス)を指導者とする武装蜂起(李在守の乱)が発生した。開港(1876年)以降、大韓帝国は世界資本主義市場への編入圧力のなかで財政基盤の強化を迫られた。二度の民乱は、その圧力が済州島のもっとも脆弱な階層にまで及んだ帰結であった。
 済州島を舞台とする二つの民乱のうち、李在守の乱は新坪里とも関わりが深い。李在守が官奴として務めた大静の役所は、新坪里の東南に隣接していた。新坪里は蜂起にあたって祭祀を執り行った地と考えられている(32)。また、民乱の軍勢が敵対したのち殺害したカトリック信徒のなかにも、一名の新坪里の民がいた(33)。
 日本軍による植民地化の足音も村に迫った。日本軍の通信施設が島内でもっとも早く設置されたのは村のすぐ南にある摹瑟峯であった(34)。植民地化に反対する義兵の蜂起も経験している。1909年2月、義兵将・高承天(コスンチョンの部隊は挙兵後に新坪里長に協力を求めたが、断られると里長を捕縛し、村内で約100名を集めたのち警察により逮捕されたという(35)。日本側の記録にも、同じ出来事が「大静郡新坪里高承天首魁となり、暴動を起し大事に至らんとしたるもの、大静駐在所康巡査の功により、首魁三名を逮捕銃殺して事無きを得た」と記されている(36)。
 韓国併合後は1912年から1914年にかけて、済州島当局と警察署の協力のもと、島民に賦役を課して済州島沿岸を結ぶ道路の建設が始まった(37)。1914年からは3か年計画で島内を一周する道路(新作路)が道幅6mへと拡張され、自動車の通行が可能となった。この新作路の開通は、済州島内の交通の重心を従来の中山間の邑城(38)中心地から海岸沿いの港へと決定的に移動させた。その結果、朝鮮時代以来の邑城所在地は次第に衰退し、かわって海岸の港町が新たな中心地として台頭した。金泰生の故郷・新坪里の属する大静でも摹瑟浦へと地域の中心が移り、警察署や郵便局が設置された。
 この重心の移動は、先にみた五万分の一地形図の上にも読みとることができる。新坪里の西北から東南にかけて実線で記された道路が新作路である。これをたどって東南に進めば大静の旧中心地があり、そこからさらに西南に向かえば摹瑟浦に着く。
 金泰生の故郷の記憶が始まるのは、日本の植民地化から十数年が経った後のことである。少年は、新作路を歩いて摹瑟浦方面からやってくる郵便局員や乗合自動車を見ている(39)。村の人々がとりわけ怖れたのは摹瑟浦からやってくる日本人の巡査だった。「巡査がサーベルをがちゃつかせて村道を歩いてくるのを認めると、たいていの家のオモニは急いで子供を小脇にひっかかえ、家の中へさっさと姿を消してしま」ったという。そして、「巡査が家にやってくるときっとよくないことがおこるものだと、大人の話しあうことばをすっかり聞き覚えていた」と記している(40)。出生前の出来事ということもあり、小説やエッセイに民乱や義兵、新作路建設の賦役への言及はないが、義兵蜂起や道路工事に駆り出されたことは、上の世代の村人にとっては忘れられない出来事だったはずである。「きっとよくないことがおこる」と考えたのも無理はないだろう。
 また、金泰生の幼少期の回想には、しばしば海辺の村に住む母方の祖母の家が登場する(41)。この家は新坪里ではなく摹瑟浦かその近隣の海辺にあったようだが、正確な地点はわからない。ただ、港と村を結ぶ一本の線が少年の記憶のなかの行動範囲だったことは確かである。

1920年の出稼ぎ

 金泰生が母に聞いたところによれば、結婚前の両親が最初に日本へと出稼ぎに行ったのは1920年のことであった(42)。二丁櫓の小舟に乗って1か月かけて対馬を経由して大阪へたどりつき、母はそれから岸和田や名古屋の紡績工場で働いたという。岸和田紡績株式会社は第一次世界大戦勃発後の好景気にともなう人手不足を補うため数多くの朝鮮人女工を働かせており、母もまたその一人だったのであろう(43)。父がどのような職場で働いたかは明らかではないが、炭鉱における石炭採掘や鉄道やダム建設などの土木工事の飯場あるいはガラス工場だったかもしれない。
 なぜ、二人は1920年に日本へ出稼ぎに行かねばならなかったのだろうか。地理学者の桝田一二によれば、日本への出稼ぎの「揺籃期」(1907-1913年)は日本の漁船に乗り込み漁撈見習いとして百余名が働くにとどまったが、「誘発的出稼期」(1914-1922年)には、第一次世界大戦がもたらした好況が労働力不足を引き起こし、阪神工場地帯の紡績工場は職工募集のための事務員をたびたび済州島に派遣するようになったという(44)。さらに1919年頃からは福岡県の三菱炭坑株式会社を皮切りに北九州の工業地帯にも済州島から労働者が出稼ぎに行くようになる。この結果、1922年時点で計3502人の済州島出身の出稼ぎ労働者が内地にて働いていた(45)。
 両親の出稼ぎもまた、こうした内地側の需要に引き寄せられたものだったことは間違いないが、同時に済州島側の事情、すなわち土地調査事業が及ぼした影響も考慮しなければならない。土地調査事業とは、1910年の韓国併合後、朝鮮総督府が近代的な土地所有権制度の確立と地税収入の安定的確保を目的として、1910年から1918年にかけて全国規模で実施した事業である。申告主義を基本方式とし、地籍測量によって筆地ごとの地目・地位等級・地価を確定した上で、土地台帳と地籍図を整備した。この事業を通じて朝鮮の土地は近代的な私的所有権のもとで登録・課税された一方、国有地への編入をめぐる紛争をはじめさまざまな葛藤も呼び起こすことになる。
 出稼ぎの背景を考えるにあたり注目すべきことは、事業が済州島の人々にもたらした地税負担の急増である(46)。この事業の結果、済州島の地税総額は1917年に前年比約199%増(金額にして約3倍)、1918年にはさらに約38%増という急激な増加を記録した。この地税総額の急増は、自給的畑作農業(麦・粟中心)を営んでいた個々の零細土地所有者のレベルでみれば、それまで実質的に無税に近かった土地に、新たに現金納税義務が生じたのに等しい。地税の急増は単なる財政負担の増加にとどまらず、自給的な現物中心の営みに支えられていた済州島の農家経済のあり方を貨幣と市場に依存するものへ変えていっただろう(47)。
 新坪里でも土地調査事業が実施された。その際に作成された地籍原図には金泰生の祖父と伯父それぞれの土地を複数確認できる(48)。金泰生の本籍地の名義人は伯父で地目は「垈」=宅地として登録されており、東に祖父の「田」(=畑地)が、南に伯父の「畓」(=水田)がある。事業の結果、これらの土地所有権が確定された一方で、一族は急激に増額した地税の支払いに直面したと推測される。この時期に父や従兄らが日本へと出稼ぎに行った背景にも、急増した地税負担に対処するための現金収入の必要があったのかもしれない。
 母方の場合、土地調査事業の影響はより直接的である。後年、金泰生の母は二丁櫓の小舟で危険を冒して出稼ぎに行った理由を「なんぼ百姓だって、土をなめて命をつなげるわけもないだろ? ちっぽけなその畑だって、みいんな他人のものなんさ。大きい土地はごっそり日本人がおさえてしまってるだ」と語っている(49)。金泰生の母方の家族も地税負担の急増の影響を免れなかったと思われるが、この言葉が示すように、母の家族は土地調査事業による生業の場の喪失という被害を蒙っていた。
 ここで注目すべきは外祖父・金用平の経験である(50)。金用平は娘二人――つまり金泰生の母と叔母――を得たのち、男子を産まないとの理由から妻を離縁した。この離縁された妻は、海辺の村に住む金泰生の母方の祖母・金一中のことである。この女性はのちに再婚相手との間に男子三人を出産し、うち下の二人は大阪で金泰生の人生に多大な影響を与えることになるが、それは少し先の話である。
 金用平は後妻を迎えて麺類を出す食べ物屋を開いたが、その女性に金を持ち逃げされたため店を畳み、「放牧場の近くの小さな畑の隅」に小屋を立ててそばを播いて暮らした(51)。しかし、土地調査事業によってその畑を取り上げられてしまい、結局娘である金泰生の母が出稼ぎのため日本に行くことになったというのである。
 そば畑があったのは「放牧場の近く」とあり、おそらく牧場田だったものと考えられる。かつてこれらの土地は法的には国家の所有でありながら永久耕作権が黙認されていたが、19世紀末頃から地方官吏はこれらの土地から過度な徴税・収奪を行い、二度の民乱を招いたことはすでに記したとおりである。牧場田は土地調査事業によって国有地へと編入され、農民の耕作権は否定されることになる。外祖父がそば畑を喪失したのも、この過程によるものと考えられる。

父母との離別

 母は50円の蓄えをもって1923年に村へと戻ってきた(52)。3年前に二丁櫓の小舟で渡った海は、このときすでに様子を変えていた。1922-23年頃には大阪と済州島を結ぶ連絡船「君が代丸」が就航しており、1か月をかけて対馬を経由するような渡航はもはや必要ではなくなっていた(53)。
 このとき母は父と結婚していた。戸籍の記録では1923年2月のことだった。しかし、翌年11月に生まれた金泰生には次のような事情から、父母のもとで育つ幸せは与えられなかった(54)。

ぼくを身ごもった母を郷里に残して、父はふたたび日本へ渡って行った。そして、それ以来まったく音信を絶ってしまった。[中略]母はぼくを生み、四歳まで育てあげたぼくを手放して他家に去った。母がそのような決意を固めた直接の理由が何であったのか、幼いぼくには理解のしようがなかった。ただ、ぼくを伴って家を出る覚悟であった母が、伯父に妨げられてやむなく手放したことだけは記憶がある。妻は夫との関係を通じて、眷族([ママ])全体に従属する存在と信じていた伯父たちは、一族の体面にかけても母からぼくを引き離す必要があったようだ。いわば、それは母に対する制裁だったのだ。

 母はこのとき村の「せともの焼き屋のおじさん」と駆け落ちをした。夫が消息を絶ち、送金が途絶えるなかで、畑を耕しつつ「おじさん」に分けてもらった甕を売り歩くことで、母は何とか生計を立てていたのである。かつての出稼ぎの経験は、母にどこででも生きていけるという自信を与えたのかもしれない。あるいは遠い島まで甕を運んだという流通のネットワークを頼りに、故郷の村から母と「おじさん」、そして金泰生の三人で逃れようという計画だったのかもしれない。
 しかし母は息子を伴って逃れることができなかった。母に去られた記憶が少年の心に深い傷を残したであろうことは想像に難くない。金泰生はのちに、この経験と向き合い、かすかに残る故郷の記憶を作品のなかに刻みこんだ短篇「童話」を書き上げることになる。その「童話」のなかで、金泰生は本稿の冒頭に掲げた問いに答えている。父はなぜ日本へ渡り、そのまま帰ってこなかったのか。この問いを、金泰生は長い時間をかけて考え続けた。その証拠に「童話」では父の離郷を説明する台詞が、のちの改稿で書き改められている。しかもその台詞を与えられているのは、母を連れて村を出た、あの「せともの焼き屋のおじさん」であった。
 「童話」をはじめに発表したとき(1958年)、作中で「おじさん」は父を「好きな女と満州くんだりでしたい放題のでたらめをやってる」と罵った(55)。これが1977年に発表された改稿版では次のように修正された(56)。

くにで生きていけねえから日本へ働きにとび出して行ったんだ。どうにもならないからくにへ帰ってくることもできねえだよ、きっと。はじめからおめえたち母子を放りっぱなしにするつもりはなかったはずだ。考えてみればおれたちはみいんな、根をおろす土をとられた苗みたいなもんだあ、じっとしていたら枯れて死ぬほかねえだよ、[後略]

 1958年版にあるのは、母との離別の原因をつくった父への怒りと軽蔑である。1977年版では、父がなぜ村を出たのか、なぜ帰ってこないのかを内在的に問いなおし、はじめから子を捨てる意志などなかったのだとかばう台詞へと変わる。罵倒が説明に変わったというにとどまらない。母を連れて村を出た当の男に、誰もが父と同じく「根」から押し出されかねない状況に追いこまれているのだと語らせている。これまでみてきたように、牧場田は国有地に編入され、外祖父はそば畑を失い、母は「ちっぽけなその畑だって、みいんな他人のものなんさ」と語った。この事態を「おじさん」は「根をおろす土をとられた苗」という比喩で語る。冒頭に引いた、日本の雑貨品の流入が村の経済基盤を「根底からつき崩し」たという晩年の説明も、この認識の延長上にある。父個人への怒りから、父を押し出した力へと、金泰生が「眷属の離散」について語る言葉は移っていった。

母の選択

 金泰生は母が自分を捨てたことの意味にも向き合い続けた。「骨片」という作品のなかで、このときの母の「選択」を次のように書いている(引用中の「用民」は作者の分身である)(57)。

母に去られて、村の縁者の家を転々としながら、幼い頃の用民は母の仕打ちを恨んだ。しかし、いまはその母のふるまいを潔ぎよいものと考えている。彼女が世間でいうところの貞節な女ではありえなかったとしても、少くとも用民への愛着に惹かれてみずからの心に背き、愛のない男に自己の生を供える奴隷の生き方だけは拒んだ女だった。その後の彼女の幸不幸は用民の問うところではなかった。彼女自身が選択したものであることによって、その生はすでに輝いているはずなのだから。

 母・金戊生は二度村を出た。一度は1920年に二丁櫓の小舟で海を渡ったときである。前節に引いたように、彼女はその理由を、「ちっぽけなその畑だって、みいんな他人のものなんさ」と語った。植民地支配のもと、耕してきた土地が帳簿の上で誰か別の者の名義になるなか、自らが働き現金を得ようとしたのである。もう一度は、幼い金泰生を手放して村を出たときである。このとき彼女を縛っていたのは、「妻は夫との関係を通じて、眷族全体に従属する存在」とみなす親族秩序であり、伯父たちはその秩序の名において子を取り上げた。前者の出稼ぎが崩れゆく家族の生活再建のためだったとすれば、後者の駆け落ちは彼女自身の生のためだった。金泰生はその「選択」に輝きを見出したのである。
 もっとも、自身も記しているように、はじめは母の仕打ちを恨んでいた。「潔ぎよい」という評語は、4歳で母を失った子どもがその場で手にしたものではなく、何十年もかけて後から書き得たものだ。金泰生がこのように書けるようになるまでには、長い歳月が必要だった。
 母の去った村で、少年・金泰生は父の実家に引き取られた。だが父方の親族たちも続々と日本へと渡っていき、やがて少年は外祖父・金用平のもとへ預けられた。そば畑を失ったあの外祖父である。母もその後、村で暮らしはじめていたが、「せともの焼き屋のおじさん」との間に異父妹が生まれたその家は、もはや少年の帰れる家ではなかった。そして1930年、金泰生自身も故郷を離れた。このとき少年が乗った船は大阪と済州島とを結んでいた君が代丸だった。こうして金泰生の大阪時代が始まる。

注

  1. 金泰生『改訂新装版 旅人伝説』琥珀書房、2025年、24頁。
  2. 金泰生の生まれた1924年時点の朝鮮の行政区画は、広域より順に道―郡―面―里の四階層に分かれていた。ただし、郡と同格の単位として府・島が置かれ、府には町・洞が、島には郡と同じく面・里が置かれた(済州島は鬱陵島とともに1915年より郡から島に改称され、道に直属する行政区画となる)。里はこのように行政区分の名称上は最末端に位置する単位であるが、日本の「村」とは異なり独自の行政機構を持たず、実務上の行政機能は面が担っていた。
  3. 大静の行政区画上の位置づけの変遷は以下のとおりである。朝鮮王朝時代の済州島は済州牧、旌義県、大静県の三つの行政区画に分かれていた。甲午改革以後の近代的地方制度への移行により大静郡へ昇格し、全羅南道に編入された。韓国併合後の1914年3月、朝鮮総督府は行政区域改編に着手し済州、旌義、大静の一牧二郡体制をあらためて、済州郡へ一元化。1郡13面とし、楸子島を済州島に帰属させた。この際、大静郡右面を大静面へと名称変更した。1915年5月には島制を実施し、日本人島司を任命し警察署長を兼任させた(初代島司は今村鞆)。解放後の1946年8月に済州島は済州道へと昇格し済州郡が南北に分割されると、大静面は南済州郡に属すこととなった。1956年7月には大静邑へと昇格し、2006年7月に済州特別自治道発足にともない南済州郡が西帰浦市に統合されたため大静邑は西帰浦市所属となり現在に至る。
  4. 「大静及馬羅島 全羅南道済州島(朝鮮五万分一図)(済州島南部 9号、10号)」朝鮮総督府陸地測量部、1918年(国立国会図書館所蔵)。
  5. 中井猛之進『済州島并莞島植物調査報告書』朝鮮総督府、1914年、13頁、119頁。
  6. 大静邑誌編纂委員会編『大静邑誌』第3巻、大静邑誌編纂委員会、2014年、325頁。
  7. 同上書、327頁。
  8. 同上書、328頁。
  9. 金泰生『改訂新装版 旅人伝説』24頁。
  10. 前掲『大静邑誌』第1巻、530-532頁。
  11. 髙村竜平「家族とクェンダン 先祖祭祀と社会関係にみる儒教と固有文化」、梁聖宗、金良淑、伊地知紀子編『済州島を知るための55章』明石書店、2018年、80-83頁。
  12. 金泰生は作中では「眷堂」という漢字をあてていることが多い(例えば『私の人間地図』青弓社、1985年、169頁)。
  13. 戸籍や族譜は新坪里在住の金泰生の親族・金明完氏にご提供いただいた。記して感謝を申し上げたい。
  14. 本貫とは、朝鮮における姓の始祖の出身地、あるいはその子孫がその後拠点とした土地を指す地名で、同じ姓であっても本貫が異なれば別系統の親族集団として区別される。
  15. 金泰生、飯沼二郎、大沢真一郎、小野誠之、鶴見俊輔「〈座談会〉日本地図への別の見方」、『朝鮮人 大村収容所を廃止するために』第21号、朝鮮人社、1983年、2頁。
  16. 行列字はトルリムチャ(돌림자)とも呼ばれ、親族内の行列(代)を示すために名前につける共通の字を指す。
  17. 鄭栄桓「「二重の死」に抗する文学 『私の日本地図』に寄せて」、金泰生『改訂新装版 私の日本地図』琥珀書房、2025年、306-310頁。
  18. 金明完氏へのインタビュー(2025年3月3日、新坪里マウル会館にて)。
  19. 前掲『大静邑誌』第3巻、333-334頁。
  20. 金泰生『改訂新装版 旅人伝説』24頁。
  21. 金用平の弟の娘は「私が七つの時」に父が亡くなったと回想したという(金泰生『私の人間地図』30頁)。この女性は本文にも書いたとおり金泰生の育ての親の「おばさん」である。この女性の生涯を綴った「ある女の生涯」において金泰生は生年を1905年としている(金泰生「ある女の生涯」、『改訂新装版 私の日本地図』261頁)。よって「七つの時」は、数え年ならば1911年、満年齢ならば1912年頃ということになる。なお、1920年にも済州島ではコレラが流行した(고경호「1920년 제주지역 콜레라 유행 연구」『濟州島硏究』第64集、2025年)。この年に亡くなった伯父・金燦潤の死もこの伝染病によるものだったのかもしれない。
  22. 飛田雄一編『金英達著作集Ⅲ 在日朝鮮人の歴史』明石書店、2003年、24-27頁。
  23. 日清・日露戦争から韓国併合までの在日朝鮮人労働者については、小松裕、金英達、山脇啓造編『「韓国併合」前の在日朝鮮人』明石書店、1994年所収の各論考が詳しい。
  24. 「東洋紡績七十年史」編修委員会編『東洋紡績七十年史』東洋紡績株式会社、1953年、229頁。金子マーティン「戦前期繊維業における植民地朝鮮出身の女性労働者と労働運動 国内被差別集団との関連で」、徐龍達先生還暦記念委員会編『アジア市民と韓朝鮮人』日本評論社、1993年、314-315頁。宋連玉「大阪における在日朝鮮人の生活 1945年以前」、枚方市教育委員会社会教育課編『在日朝鮮人の歴史 枚方での掘り起こしのために』枚方市教育委員会、1993年、49頁。
  25. 東定宣昌「明治期, 日本における最初の朝鮮人労働者 佐賀県長者炭坑の炭坑夫」『經濟學研究』第57号、1992年。
  26. 日本国有鉄道広島鉄道管理局『関釜連絡船史』日本国有鉄道広島鉄道管理局、1979年、17頁。
  27. 木村健二『在朝日本人の社会史』未來社、1989年、前掲金英達『在日朝鮮人の歴史』24-27頁。
  28. 森田芳夫『数字が語る 在日韓国・朝鮮人の歴史』明石書店、1996年、33頁。
  29. 『信陽新聞』1918年7月2日付、同19日付。
  30. 以下の民乱の経緯については박찬식『1901년 제주민란 연구 근대 외래문화와 토착문화의 갈등』각、2013年を参照。
  31. 済州島には朝鮮時代以来、馬を育成するための国営牧場が中山間地帯に設置されていた。牧場田とは、この牧場の内部で開墾され耕作された田地を指す。本来は馬の放牧地であり耕作が禁じられていたが耕地の乏しい済州島では牧場内の開墾が黙認され、次第に牧場税が賦課される対象になっていった。一方、火田は山林や原野を焼き払って開墾する焼畑で、牧場の内外を問わず中山間・山間部に広がっていた。19世紀に入ると牧場内での火田経営も許容されるようになり、火田は単なる不法な耕作地ではなく「収税地」として認定されていくことになる。
  32. 新坪里にある「本郷堂」の碑文には「1901年辛丑年李在守乱のとき、状頭李在守が出征にあたりこの堂の前で祭祀を執り行った」と記されている。
  33. 前掲박찬식『1901년 제주민란 연구』183頁。
  34. 塚﨑昌之「済州島に残る旧日本軍遺跡 南北分断の悲劇を生みだした日本軍の爪痕」、前掲『済州島を知るための55章』明石書店、2018年、190頁。
  35. 김황제「韓末 濟州義兵抗爭의 전개와 성격」숭실대학교 대학원 사학과 석사학위논문, 2017年、26頁。
  36. 濟州島廳『未開の寶庫濟州島』全羅南道濟州島廳、1924年、31頁。
  37. 前掲『大静邑誌』第1巻、326頁。
  38. 邑城とは、朝鮮時代の郡県の行政中心地に築かれた城壁で囲まれた地方官の統治拠点を指す。内部には官衙や倉庫、郷校などが配置され、行政・軍事・儀礼の中心機能を一体的に担った。済州島には済州牧・大静県・旌義県の三邑にそれぞれ邑城が築かれた。
  39. 金泰生『改訂新装版 旅人伝説』6-7頁、金泰生『改訂新装版 私の日本地図』20頁。
  40. 金泰生『改訂新装版 旅人伝説』7頁。
  41. 同上書、12-16頁。
  42. 金泰生『私の人間地図』8-9頁。
  43. 岸和田紡績への朝鮮人女工の雇用については、金賛汀『朝鮮人女工のうた 1930年・岸和田紡績争議』岩波新書、1982年を参照。
  44. 桝田一二「済州島人の内地出稼に就て」『大塚地理学会論文集』第5輯、1935年、25頁。
  45. 同上、25頁。
  46. 以下の済州島における土地調査事業の実施については、김영순「일제의 토지조사사업과 제주도지세제도 변화 연구」제주대학교 대학원 사학과 석사학위논문、2020年、70-71頁を参照。
  47. キム・ヨンスンによれば、全国的には1914年の地税令制定にともなう結価の引き上げによって地税総額が前年比約44.8%増と急増したのに対し、済州島ではこの時期に地税額の変動はまったくみられず、かわって全国的には税額が落ち着いていた1917年に、突出した急増が生じている(同上論文、68-69,71-72頁)。済州島はもともと可耕地が少なく土地生産性も低い水準にあり、また済州島は結負制による量田を一度も受けたことがないという制度的経緯から、従来「有田無税」として実質課税を免れていた土地が多く存在していたが、事業の結果、これら零細な民有地が一括して課税対象に組み込まれたことが、この急増の主因であった。
  48. 地籍原図上の姓名から、金斗杓名義の土地を5筆(田4、畓1)、金燦潤名義の土地を6筆(田3、垈1、畓2)を確認できる(朝鮮総督府臨時土地調査局「済州島右面新坪里原図」(1914年)、第5、7、9、10、11、12、19号)。
  49. 金泰生『私の人間地図』5頁。
  50. 同上書、31頁及び前掲「ある女の生涯」260−262頁。なお、前者では放牧場の畑を失ったのは「クナボジ」=(「おばさん」からみた伯父、すなわち金泰生の母の父・金用平)とされているが、後者では「父」となっている。金泰生には晩年に近づくほど作品内の出来事の記録性が高まる傾向があり、「おばさん」が七つのときにコレラで亡くなったとの回想とも整合することから、『私の人間地図』の記述がより事実に近いと判断した。
  51. 金泰生『私の人間地図』31頁。
  52. 金泰生『私の人間地図』9頁。
  53. 伊地知紀子「君が代丸 阪済航路と済州島」、前掲『済州島を知るための55章』210頁。金賛汀『異邦人は君ケ代丸に乗って 朝鮮人街猪飼野の形成史』岩波新書、1985年、杉原達『越境する民 近代大阪の朝鮮人史』岩波現代文庫、2023年もあわせて参照されたい。
  54. 金泰生『私の人間地図』10頁。
  55. 金泰生「童話」『文藝首都』第27巻第2号、1958年2月、62頁。
  56. 金泰生「童話」『季刊三千里』第11号、1977年8月、247−248頁(のちに金泰生『骨片』創樹社、1977年に収録)。林浩治はこの改稿に「自然主義的な感情表現」から「「在日」の歴史性を看破した批判的リアリズムの方法」への方法上の発展を読みとっている(林浩治『在日朝鮮人日本語文学論』新幹社、1991年、163頁)。
  57. 金泰生「骨片」、前掲金泰生『骨片』107頁。