植民地の「哀れな児童」と呼ばれたが
在日朝鮮人作家・金泰生が、済州島から大阪へ渡ったのは幼少期のことだった。学校に通う余裕はなく、少年時代の大半を町工場で働いて過ごした。当時、そうした朝鮮人の子どもは大阪だけで数千人を下らなかった。だが、その子どもたちの中に、自分の目で見た世界を書き残した者は、ほとんどいない。金泰生は、その稀な一人であった。
一九三〇年の夏、ぼくは五歳で済州島から玄海灘を渡り、大阪の猪飼野にある縁者のもとにひきとられた。
巷には職を失った日本人があふれている不景気の時代であった。まして日本語もろくに話せない朝鮮人が、まんぞくな仕事にありつけるわけもなかった。大人たちはまず生きること、日々の暮らし、朝夕の糧を得るための仕事さがしに血眼だった。だからまた、たとえ子供であっても学校へ通えるのは幸運な方で、多くは十歳前後からなによりもまず自分の食費を稼ぎ足すために、仕事をみつけることが先決だった。
父や母とも離ればなれになったぼくを引き取った縁者のおばさんは、それまでの暮らしぶりを後日になってよく語ってくれた。縁故のある者や同郷の知人が頼ってくると、六畳一間の室に二世帯、時には三世帯の家族が折り重なるように雑居していた、という。
——男衆が仕事にあぶれるだろ。女は手の空いた人に子供を預けて、なりふりかまわず働くだ。屑屋の仕切場(問屋)に頼みこんで、セメント袋の糸ほごしをやらせてもらう。朝の早くから暗くなるまで、一枚でもよけいにやろうと根をつめる。明くる日も仕事をもらいたいからなあ。髪も顔もセメントの粉をかぶってまっ白くなるだ。まるで百歳のおばあちゃんみたいになるだぞ。家にかえって髪を洗っても、ぬれたセメントの粉で髪がくっついて、櫛の目が通ってくれないだ。
[中略]
だが、彼女に引き取られた当座のぼくは、働くには幼すぎ、学校へ通うことは貧しくてかなわず、ただ時間だけはちょっぴり自由な立場にあった。家では暮しのすべてが母国語によって営まれていた。一歩外へ出ると道を行き交うのは大人も子供も日本人だった。身なりも、履物も、話すことばも、ぼくたちとはまったく異なっている。そこはもう、ぼくにとって言葉の閉ざされた世界だった。そして、ぼくが頼れるものはぼく自身の小さな眼と耳と鼻と手と足だけだった。(1)
私が金泰生の作品を手に取ったのは、植民地時代の在日朝鮮人児童の教育状況を調査していたときのことだった。日本の学齢児童の小学校就学率が第一次世界大戦期にほぼ100%へ達した一方、在日朝鮮人児童の状況はまったく異なっていた(2)。故郷を離れて日本へ出稼ぎに来る朝鮮人は同じ大戦を境に増えはじめ、植民地支配が貧しい農民の離農・離郷をさらに促した結果、その数は1930年には30万人へ肉薄した(3)。家族帯同や呼び寄せが増えるにつれて女性の比率も高まり、子どもの姿も次第に目立つようになった。
新聞や行政も朝鮮人児童の状況に注目しはじめる。とりわけ報道が多いのが、1930年の時点で全国の4分の1近い約7万3千人が暮らした大阪だった(4)。『大阪朝日新聞』は1932年8月に大阪府下の朝鮮人学齢児童の「未就学」問題を次のように報じている(5)。
失業からルンペンの群に陥る朝鮮人は最近ますます激増して夥しい数に達している模様であるが、これに伴い朝鮮人学齢児童の未就学者が激増し、二十六日調査完了した府特高課の調査によると、府下朝鮮人学齢児童総数一万五八〇名の約半分五一九四名は未就学のまま家庭にあることが判明した。
これを昨年に比すると実に八百余名の激増で、父母の貧困によるもの最も多くつぎは父母の失職から学校にゆけぬ児童で幼な心にもその日の糧を得るため父とともに拾い屋をするという哀れな児童もかなりあった。
未就学児童の最も多いのは朝鮮人密集地帯の東成区で一一二四名。港区の八〇八名、此花区の四九一名、中河内の四一二名なども多い方である。
記事にある大阪府特別高等課の調査に従えば、府内の朝鮮人学齢児童の就学率は約51%ということになる。だが、調査に捕捉されない児童も相当数いたはずだし、昼に工場で働いてから夜学校へ通い、中途で退学せざるをえない生徒も多かっただろう。実際の就学率はさらに低く、卒業率に至っては実態の把握自体が困難だったにちがいない。当時の日本では14歳未満の工場労働は原則として禁止されており、文部省は在日朝鮮人児童も義務教育の対象とする立場を採っていた(6)。それでもなお、放置される子どもが少なくなかったことは、多くの史料から読み取れる。
ただし、その状況を当事者の目線から伝える史料は、ほとんど残されていない。圧倒的多数を占める新聞報道や社会調査の眼差しには、差別や偏見が色濃くにじむ。貧困の原因を露骨に朝鮮人の怠惰へ帰する調査すら存在する。役所や記者が「哀れな児童」と呼んだその子どもたちの側から、世界はどう見えていたのか——日本人の記者や役人、あるいは特高警察ではなく、朝鮮人の子ども自身の目線で書かれた文献を読みたい。そう考えていた矢先に出会ったのが、金泰生の作品だったのである。
涙はぜいたくな持物
冒頭に挙げたのは金泰生の晩年のエッセイ「涙はぜいたくな持物」の一部である。少年が大阪に来る前年に起きた大恐慌は全世界を長期不況へとひきずり込み、日本でも数多くの人々が失業状態に追いこまれていた。大人たちが貧困と失業にあえぐなかで少年時代の金泰生に小学校へ通う余裕などなく、十代前半のころから町工場で働き続けていた。まさに上に引いた『大阪朝日新聞』の記事のいう「哀れな児童」の典型だった。
しかし、金泰生は「哀れな児童」にとどまってはいなかった。独力で日本語を学び、戦後には結核を発症して死の淵に立たされながらも生還した。そして、みずからの体験をもとにした小説を書き続け、『骨片』や『私の日本地図』『私の人間地図』『旅人伝説』の4冊の作品集を残した。なかでもたびたび取り上げたテーマが大阪で過ごした少年時代だった。働く朝鮮人の子どもから見た大阪。まさに私の知りたかった世界を金泰生はみずからの経験をもとに綴っていた。
金泰生の文章を読みはじめた私は、すぐにその作品世界の魅力に引き込まれていった。驚くべき記憶力に基づく正確な描写に、史料としての有用さを見出したからだけではない。貧しさや病に苛まれ苦役のような労働に追い立てられながらも、日々を生き抜こうとする人々を慈しむようなその文学の眼差しに魅了されたからだ。私の祖父母とほぼ同世代で教育歴もよく似ていたので、金泰生の文章を読むたびに、もしかしたら似た経験をしたかもしれないと想像できたことも幸福な読書体験だった。こうして私は、植民地時代の在日朝鮮人児童の教育状態の調査という当初の目的を離れて、4冊の本を読みふけり、さらには単行本未収録の文章を追い求めていった。
「涙はぜいたくな持物」というエッセイは、1985年に未來社から刊行された『十代にどんな教師に出合ったか』に収録された金泰生の最晩年の文章の一つである(7)。平易な文体のエッセイだが、金泰生文学の基本姿勢や方法とでもいえるようなものが凝縮されている。この本では、タイトルからもわかるように、寄稿した学者や医師、評論家、詩人など22人の筆者たちのほとんどが学校の「教師」の思い出を綴っているが、金泰生はそうではなかった。彼の「教師」は育ててくれた「遠縁のおばさん」であり、長屋の遊び友だちであり、町工場の親方であった。それでは、「教師」たちとの交流のなかで、金泰生は何を学んでいったのだろうか。以下にこのエッセイを読み解いてみたい。
最初の教師
金泰生は幼いころに父母と生き別れている。父は日本に出稼ぎにいったまま消息を絶ち、母は再婚した。しかし、父の一族は母が息子を連れていくことを許さなかった。このため大阪へ渡った金泰生を実質的に育てたのは、猪飼野に暮らす「縁者のおばさん」とその夫だったのである。「おばさん」は妊娠を繰り返しながらも子どもを次々と失い、ついには結核のため若くして命を落とした。ともに暮らしたのは7年ほどだったが、「少年」や「ある女の生涯」などの作品で繰り返し描いていることからも、「おばさん」が金泰生に与えた影響の大きさがうかがえる(8)。
エッセイのタイトル「涙はぜいたくな持物」も「おばさん」の言葉がもとになっている。本稿の冒頭に引いたセメント袋の糸ほぐしについての語りに続く部分で、おばさんは幼い少年にこう語りかける。
一日の働き分で、安い屑米をやっと五合ほど買うだ。おかずはしんぼうして、豆腐やでおから一銭買うと大きな丼に二つもくれる。それをおつゆにして、腹を長持ちさせるんさ。カンテキ(七輪)に火をおこして軒下でまんまを炊くだ。雨が降るとカンテキに破れた傘をさして、濡れてくすぶる火を団扇であおぐだ。煙が眼に染みたって涙も出ないだ。涙はなあ、ぜいたくな人間の持物だぞ。
そして「おばさん」は、「米のおまんま」のように「どうしたって取っ換えっこのできない、人さまの役に立つ、いなくちゃあならない人間になるだぞ」と少年に教え諭した。
とりわけ「涙はなあ、ぜいたくな人間の持物だぞ」という教えは、金泰生文学の基本姿勢となった。父母との離別、異国の地での幼いころからの労働と貧困、育ての親との死別、徴兵の危機、帰国の失敗、結核の発症と、金泰生の生涯は悲惨なエピソードに満ちている。だが、これらの実体験に基づいた作品からは不思議とジメジメした印象は受けない。おそらく書いている作者自身が自分を憐れんで泣いていないからだろう。それよりも金泰生は、泣くことすらかなわなかった人々の生と死をしっかりと目を見据えて凝視した。それこそが、離郷を余儀なくされながら近代日本の最底辺で働き続けて死んでいった「おばさん」という教師が教えてくれたことだった。金泰生はそう考えていたのではないだろうか。
少年を包む匂い
「おばさん」夫婦は墓地を併設する火葬場で働いていた。金泰生の5年後に生まれた詩人・金時鐘が〈なくても ある町。/そのままのままで/なくなっている町。/電車はなるたけ 遠くを走り/火葬場だけは すぐそこに/しつらえてある町。〉とうたった猪飼野の火葬場、のちの鶴橋斎場である(9)。住居も火葬場近くの長屋であった。まったく日本語を解さなかった少年にとって「そこはもう、ぼくにとって言葉の閉ざされた世界だった。そして、ぼくが頼れるものはぼく自身の小さな眼と耳と鼻と手と足だけだった」。
墓地や火葬場というと子どもは怖がりそうなものだが、幼いころの金泰生が「小さな眼と耳と鼻と手と足」を通じてこの墓地から感じとったものは、決して否定的なものではなかった。
死者の眠る区域であることもしらないぼくには、独りぼっちでも恐れの気持ちはおこりもしない。墓石の間に幹をすらりと伸ばした白楊がある。それは故郷の村道で見なれた姿とちっとも変らない。松の木もある。蝶も飛んでくる。竹の植え込みもある。葉ずれの音を微かにたてているポプラの幹のどこかで、蝉も鳴いている。ぼくはざらつくポプラや松の木肌の感触を手で確かめ、鼻先をつきつけて仔細にその体臭を嗅いでみる。何というなつかしさだろう。青臭く、やに臭いその木肌の臭気は、村の路傍で嗅ぎなれたあの匂いとそっくりじゃあないか。日本でも、白楊や松の木は自分の村のものと同じ匂いであることが、ぼくをすっかり安心させてくれる。うれしくて体がくすぐったくなるような発見だった。そしてぼくはほとんど毎日のように墓地へ行く。それらの木々はぼくの記憶にしっかり刻まれて、親しいものとなる。
松の木とポプラは彼にとって故郷の象徴であった。いまはほとんど畑となっているが、かつて済州島南西部にある金泰生の故郷・新坪里は一面が松林だったという。「童話」をはじめ済州島時代を舞台にした小説にもしばしば松林を登場させていることから、金泰生にとって松林は懐かしい故郷の原像だったのだろう(10)。
日本語の裏切り
しかし、少年はいつまでも墓地にいるわけにもいかない。「おばさん」や周囲の朝鮮人たちと話すだけでは済まなくなる。いくら猪飼野が朝鮮人集住地であるといっても、日本人が暮らしていないわけではないからだ。モザイク状に日本人と朝鮮人の生活空間が入り組んでいたから、少年は朝鮮語の小世界を抜け出て、日本語が圧倒する「社会」へと出て行かねばならない。
少年が日本語をようやく聞きわけ、話すことができるようになったのは大阪に来て2年が経ったころだった。路地の日本人の子どもたちとも遊びあえるようになる。
子供の友情はほんのきっかけさえあれば忽ち芽生えるものだ。路上で眼が合い、肩がふれあって、ニヤリと笑い交わすともう友だちだ。鼻たれの腕白の世界はまだ未完成だから、国境の壁も民族の垣根もまだありはしない。ぼくは日本人の腕白たちとふざけあい、空地を駆けずりまわり、隠れんぼや相撲のまねごとをしながら、彼らのことばを一語一語聞き覚える。
だが、その日本語はしばしばぼくを裏切ることがあった。ぼくがうっかり〈便所〉などと口をすべらせると、腕白たちは身も世もあらぬげにぼくを指差して笑いのめすのだった。ぼくにはその理由がまだよく解りもしないのに。
「民族の垣根」を越えてふざけあうなかで、少年が日本語を覚えていく心温まる情景だ。
だが、子どもには子どもの残酷さというものがある。少年の些細な日本語の言い間違いは、たちまち嘲笑の口実となる。日本語では「便所」は「ベンジョ」と読む。一方、朝鮮語では「ピョンソ」である。金泰生は二つを混ぜて「ベンソ」と言ってしまい大いに笑われたのである。少年が怖れたのは、こうして「一生懸命学んだ日本語」が「しばしばぼくを裏切ること」だった。
本来世界を広げ、友と語り合える手段のはずの言語が自分を裏切り、腕白少年たちの嘲笑を招き入れる。少年の日本語が「正しい」か、まやかしかを判断するのは「鼻垂れの腕白」たちの耳だ。どんなに努力しようが、決めるのは彼らであって自分ではない。金泰生は当時を振り返って「文字の世界に眼を開くまで、ぼくは対人赤面症と失語症をあわせもつ無口な少年だった」と回想しているが、常にその日本語を審判される立場に置かれた少年が無口になるのはある意味では当然だっただろう。
親方の贈り物
少年はだからこそ必死に「文字の世界」に没頭した。「マンガ本から片仮名を覚え、それをアイウエオ順に比較対照してひら仮名を覚える。ルビを頼りに少年雑誌から講談本、大人の読む古雑誌の類まで手に入るものは読み漁る」。腕白少年たちと違って、「文字の世界」は自分を嘲笑したりしないからかもしれない。
もちろん言葉の世界との交渉は続く。少年の次なる日本語修行の相手は町工場の親方だった。
十歳をすぎたぼくは食費をかせぐために働かねばならない。朝の七時から夜の六時までが働く時間であり、昼食の弁当箱をかかえて工場へ行く。弁当の時間に親方がたずねる。今日のおかずは何や? ぼくは答える。ニクデンネン。ほおう、どれどれ……、あほっ、これは筋やないけ、スジ。これ買うとき、何やいうて買うた? ぼくはうなだれて、口の中で呟く。スジ、十銭、オクナハレ……。そおれみい、スジやろが。親方の眼は笑っている。でも、ぼくは笑えない。
少年は親方の眼の奥の「笑い」に敏感に反応する。だが、親方の「笑い」は腕白少年の嘲笑とは違う。弁当箱のスジを「ニク」と呼ぶのは決して間違いではない。しかし、「スジ」と呼んだ方がより正確である。ぶっきらぼうな親方の真意は子どもの揚げ足をとろうとする意地悪さにはない。そのことを金泰生は次のように書いている。
若いころからバフ掛けの手仕事をずっとしてきた親方は、物事をすべて具体的に考えるくせを身につけた人だった。スジを肉というのは、誤りだというふうに。ぼくが手という時、頭の中にはほぼ腕全体を含めたイメージをもっていた。だが親方は、ぼくに五指の名称をおしえ、掌、手首、利き腕、肘、二の腕というふうに、各部位とその機能の差異をいつものようにくりかえして叩きこんでくれる。手仕事をする者には使う道具の名を正確に覚えることが大切であるように、手のことをよう解ってなあかん、という。仕事のようできる職人のことをあれはええ腕しとる、というやろが、それも手があってのことや。
金泰生文学の徹底したリアリズムに親しんだものならば、「教師」にまつわるエッセイに親方のエピソードを書いた理由がよくわかるはずだ。「うで」を「五指の名称」と「掌、手首、利き腕、肘、二の腕」へと細分化していくように、彼はあらゆる作品のなかで常人ならば一言で片づけてしまうような風景を細密画のように描き分けていった。親方が「仕事を媒介に、それを物やことがらと具体的に対応させて、より正確なものへと叩き直してくれた」から、そうした表現への第一歩を踏み出すことができた。
また、少年と親方は一方的に審判する/される関係ではなかった。「忠臣蔵(ちゅうしんぐら)」と正しく発音したにもかかわらず、親方に「あほっ、それは、チュウシクラ、いうんじゃ」と笑われたとき、少年は口を尖らせて「大人もみんなチュウシングラや、いうてましたよ」と抗弁できた。親方は「蔵はなあ大切な物をしまいこんで、火事や地震や嵐からしっかり守るために、頑丈に建てた昔の倉庫みたいなもんや。もし蔵がグラやったら、地震の時にぐらぐらっと揺れていちころでぺしゃんこやないけ」という奇妙な言い分をまくしたてるが、もはや少年は納得しないのである。
親方は決して優しいタイプではなかったが、しかし正確な日本語を教えようとしてくれた。『私の日本地図』のなかで金泰生は、セルロイド製の櫛の「磨き」作業をする親方の手もとを「左右の親指と人指し指は磨く作業に使いながら、さらに左手の残りの三本の指で次に磨くべき櫛の片端を四、五枚しっかり掌の中に握っている」と仔細に描写しているが、上のエピソードを知ったうえで読むと、このくだりは「物事をすべて具体的に考えるくせ」を教えてくれた親方への恩返しのようにも思えてくるのである(11)。
稀な証言者から、稀な文学者へ
「涙はぜいたくな持物」はこのように少年・金泰生の世界認識の広がりを私たちに示してくれる。地べたを生きた人々をみる姿勢、対象を正確な言葉で把握し書くこと。こうした金泰生文学の思想と方法のエッセンスが凝縮されている。
だが、このエッセイの白眉は何と言っても結びの場面であろう。「縁者のおばさん」が出産したため、子守りをすることになった少年は町工場をやめることになった。このため親方のところへ給料をもらいに行ったときの回想である。
指定の日に親方の所へ給料をもらいに行くと、そこは古い木造の二階建で、階下は窓に燻んで埃をかぶった色ガラスをはめこんだカフェだった。親方は蒼白く冴えない顔色で寝巻き姿のままふとんに腹這いになり、敷ふとんの下から財布を取出した。金をかぞえはじめたが小銭がいくらか不足らしく、おい、こまかいのを少し出してくれ、と隣りのふとんへ声をかけた。すると、ふとんの中から女の人らしい白い腕だけが伸びてきて、指先でつまんだ小さな財布をぶらぶらさせた。ふとんは冠ったままで。
おれも心臓が悪うてな、近頃さっぱり元気ないんや、お前もしっかりやれよなあ。
ぼくは細くて急なうす暗い階段をなぜか足音をはばかりながら、ゆっくりゆっくり降りたことをはっきり覚えている。そして時たま夜、古本屋の帰りにカフェの前を通ると、暗い浮世のこの裏町を/覗く冷たいこぼれ陽よ……、と、かすれたレコードの歌声が流れてくるのを聞くと、別れぎわに励ましてくれた親方のことばを思い出した。その年に二・二六事件はすでに起きていた。翌年には「日支事変」がぼっ発し、縁者のおばさんも死んだ。やがて世界は戦禍の渦中にまきこまれていき、ぼくは職場を転々としながら、死んだおばさんを思い出し、希望のない労働が人間にとって苦役であることを骨身にしみて思いしった。
まったく日本語を解さず、腕白小僧たちにからかわれ、墓地のなかで故郷の匂いに癒やしを求める少年は、「教師」を気遣うかのように、階段を「なぜか足音をはばかりながら、ゆっくりゆっくり降りた」。「かすれたレコードの歌声」を聞くたびに親方を想起し、「死んだおばさんを思い出し、希望のない労働が人間にとって苦役である」ことを思う金泰生は、もはや「哀れな児童」ではない。親方やおばさんを「苦役」に追いやった世界が忘れ去ろうとする人々の生と死の意味を凝視し、書き続けようとする一人の文学者であった。
*
金泰生が遺した4冊——『骨片』『私の日本地図』『私の人間地図』『旅人伝説』——を、私はいまも繰り返しひらいている。金泰生の文学は、それ自体が一枚の地図である。済州島の松林とポプラ、猪飼野の墓地や町工場、弓ヶ浜のそばの結核療養所、キューポラのある街・川口の路地。みずからの「小さな眼と耳と鼻と手と足」で見聞きし、匂いをかぎ、そして触れたその土地土地を、感傷をまじえぬ正確な線で描きとめた。その線がたどったのは土地だけではない。貧しさと病、苦役のような労働に追われながらも日々を生きぬこうとした人々の姿、そして誰にも記録されぬまま消えてゆく生と死を、まっすぐに見据えて写しとった。金泰生文学を読むことは、この地図を指先でたどることにほかならない。
だが、地図は歩いてこそ地図になる。少年が「白楊や松の木は自分の村のものと同じ匂い」だと手と鼻で確かめたように、私もまた、自分の眼と耳と鼻と手と足で、彼の書いた土地を歩いてみたい。もっとも、そのほとんどは大きく姿を変えているだろう。故郷の松林は畑に変わって跡形もなく、猪飼野という地名すら地図から消えて久しい。だからこそ、まだ何かが残っているうちに、たずねておきたいのだ。
注
- 金泰生「涙はぜいたくな持物」、未來社編集部編『十代にどんな教師に出合ったか』所収、未來社、1985年。金泰生のご子息・金新樹氏と未來社のご許諾を得て転載。
- 日本人の学齢児童の就学率については、大門正克『増補版 民衆の教育経験——戦前・戦中の子どもたち』岩波現代文庫、2019年を参照。
- 田村紀之「内務省警保局調査による朝鮮人人口(Ⅰ)」『経済と経済学』第46号、1981年、63頁。
- 同上。
- 『大阪朝日新聞』1932年8月27日付・朝刊。
- 東京行政学会編『最新文部省例規総覧』玄文社、1938年、159頁。
- 注1を参照。以下、このエッセイからの引用については注を省略する。
- 「少年」は『季刊三千里』第4号(1975年11月)、「ある女の生涯」は同誌第3号(1975年8月)に掲載されたのち、金泰生『骨片』(創樹社、1977年)に収録された。「ある女の生涯」は金泰生(鄭栄桓編・解説)『[改訂新装版]私の日本地図』(琥珀書房、2025年)にも再録されている。
- 金時鐘『猪飼野詩集』岩波現代文庫、2013年。
- 「童話」は『季刊三千里』第11号(1977年8月)に掲載されたのち、前掲『骨片』に収録された。
- 前掲『私の日本地図』87-88頁。
過去の連載記事
(金泰生の地図を読む)猪飼野・1930年代
2026年10月1日