前回は、杜甫の「春望」を取り上げ、この詩は戦争がいま現在も続いている状況を詠んだ詩であることを指摘した。すなわち、「国破れて山河在り」という句は、国都は破壊された状態で横たわっている、それと同時に、人無きがごとくなった世界に山河がその存在感を示している、と、このように解釈するのである。それに対して、『おくのほそ道』平泉の章段は、「春望」を引用するものの、「国破れ」たこと、つまり義経らの敗北は遠い昔の出来事であり、芭蕉の目の前で何らかの事態が展開しているわけではなく、ここに「春望」との差異を見ることができるのではないか。こう問うたところで、前回は一旦考察を終えたのであった。
この問いに対する答えは、イエスでもありノーでもある。確かに、芭蕉の目の前で合戦が行われているわけではない。しかしながら、高館に立った芭蕉は、義経最期の戦いをありありと幻視していたのではないか。わたくしはそのように考えたいのである。
舞の残影
まずは『おくのほそ道』平泉の段全体を改めて読んでみることにしよう。
三代の栄耀一睡の中にして、大門の跡は一里こなたに有り。秀衡が跡は田野になりて、金鶏山のみ形を残す。
まづ高館にのぼれば、北上川、南部より流るる大河なり。衣川は和泉が城をめぐりて、高館の下にて大河に落ち入る。泰衡等が旧跡は、衣が関を隔てて、南部口をさし堅め、夷をふせぐとみえたり。
さても義臣すぐつてこの城にこもり、功名一時の叢となる。「国破れて山河あり、城春にして草青みたり」と、笠うち敷きて、時の移るまで涙を落としはべりぬ。
夏草や兵どもが夢の跡
卯の花に兼房みゆる白毛かな 曽良
芭蕉はまず、高館付近の地勢を描写する。奥州藤原氏三代の政庁・平泉館の大門の跡、秀衡の居館の跡、そして秀衡が富士山に見立てて築いた金鶏山。北上川は遠く南部氏の領地から流れ、衣川は秀衡の三男・和泉三郎忠衡の館である和泉が城をめぐり、高館の下にて北上川と合流する。衣が関を隔てたかなたには秀衡の次男・泰衡の拠点があって、平泉の北の防ぎとなっている。
さて、このあたりの描写に関して、俳文学者の尾形仂が興味深い見解を示している。ここには幸若舞の影響があるのではないか、というのである。幸若舞とは、室町時代から江戸時代にかけて流行した芸能で、物語を謡いながら舞うものである。江戸時代には、幸若舞の謡の文句を抜き出し挿絵を添えた書物が出版され、芸能としてだけではなく読み物としても享受された。
尾形は次のように述べる。
思うに芭蕉の脳裡には、この時、幸若『和泉が城』の場面が二重写し的に思い描かれていたのではあるまいか。〈…〉芭蕉が今衣川に臨んで、「かのいづみが城と申は、三方は衣川、一方は堀をほり」「たかだち殿といづみが城とは、そのあひ十八町の所なれば」といった舞曲の場面を思い起こしたとしても、いささかの不思議はない。「衣川は和泉が城をめぐりて、高館の下にて大河に落入」という叙景は、そうした舞曲の合戦場面と、実際に和泉が城址といわれる地を訪れた、二重の回想の上に立って、高館からの眺望として述べられたものにほかならない。(1)
幸若舞「和泉が城」は、和泉三郎忠衡の最期を描くもの。忠衡は義経を討つことをいさぎよしとせず、みずからの館に立てこもる。しかし寄せ来る軍勢を前に己の運命を覚悟した忠衡は、二人の子供を手にかけ、妻とともに応戦したのち、自害して果てる。芭蕉は『おくのほそ道』塩竈明神の章段で忠衡を「勇義忠孝の士」と評しているのだが、尾形によれば、このような評価は忠衡の最期を題材とする幸若舞「和泉が城」あるいは謡曲「錦戸」を踏まえなければ導き出されない。上引の見解はこのような論理を前提としたものである。
わたくしは尾形の見方に同意するものであるが、それは全く個人的な体験による。しばし思い出話にお付き合いいただきたい。
戦いの序幕
頼朝との対立のすえ都を落ちた義経と弁慶一行は、加賀の国・安宅の関にさしかかる。弁慶ら家来は山伏に、義経は強力に身をやつしていたものの、関の役人・富樫に見とがめられてしまう。しかし弁慶の機知と富樫の義侠心のおかげで、義経主従は関を越えることができ、陸奥の国へと向かっていったのであった。
これは歌舞伎「勧進帳」の物語である。以前歌舞伎座でこの芝居を見ていたとき、わたくしは実に忘れがたい体験をした。芝居の前半、弁慶と富樫が丁々発止の問答を交わすところ。役者の演技があまりに真に迫っていたからであろう、歌舞伎座の中で舞台の上だけぽっかりと別の時空が口を開けて、そこに鎌倉初期の時間が流れているかのように感じたのである。もし客席から立ち上がってつかつかと舞台へ歩み寄り、舞台に向かってぐっと腕を突き出したならば、体のほかの部分を令和の世に残して、腕の先だけ鎌倉時代に入り込むのではないかと、そう思ったほどである。
芝居の最後、弁慶は飛び六方という方式で、跳躍しながら花道を引っ込んでゆく。喜び勇んで旅路に向かう様子を表したものだが、ここでふと考えた。弁慶たちが急ぐ先は陸奥である。陸奥とは平泉である。平泉の地で義経たちを待ち受けているものは、死。「勧進帳」は死という一大悲劇をあとに控えた序幕だったのだ。
このことに思い至ったとき、わたくしの脳裏には衣川の戦いの光景が映画のように流れはじめた。しかしそこに見えた義経や弁慶の姿は、さっきまで檜舞台の上にいた義経役者の姿であり、弁慶役者の姿であった。
高館の丘に立った芭蕉に見えたのも、同じような光景だったのではないか。句といわず文といわず、芭蕉の作品には謡曲を下敷きにしたものがしばしばみられる。義経や弁慶が登場する能を芭蕉が見ていたとしてもおかしくない。だとするならば、義経や弁慶の最期を思い浮かべる芭蕉の目には、義経を舞い、弁慶を舞った役者の死に姿が見えていたのではなかろうか。
見えていたもの
ちょっと冷静になって、こんなことを考えてみる。義経が没したのは西暦1189年、芭蕉が平泉を訪れたのは1689年。芭蕉にとってさえ、義経は500年も前の人物であった。しかし今日のわれわれにとってみれば、義経は840年近く前の人物であるから、これに比べれば芭蕉のほうが義経の時代に近いといえる。
かつ、兵どもが戦場に功名を競った戦国の世は、芭蕉の時代からそう遠く離れてはいない。徳川氏の天下になっても、大坂の陣があった。芭蕉は今のわれわれと比べてはるかに鮮明に合戦の場面を思い浮かべられたはずである。
「夏草や兵どもが夢の跡」と詠んだとき、芭蕉は草いきれの中に、血の匂いを嗅ぎとっていたのではないか。
こう考えてくると、曽良の句も心にすんなりと入ってくる。「卯の花に兼房みゆる白毛かな」とは、白く咲き乱れる卯の花に、義経方の老将・兼房が白髪を振り乱して戦うさまが重なって見える、という意味であるが、ともすると色彩・形状の共通性を媒介に花と頭髪を結びつけた頓智の句に見えがちである。しかし曽良には確かに兼房の姿が“見えていた”のだと思いたい。芭蕉と曽良には、「義臣すぐつてこの城にこもり、功名一時の叢となる」一部始終が“見えていた”のである。
作詩の態度
ここでまた、平泉の章段を読み返してみよう。はじめの一節では、「大門の跡」「秀衡が跡」と、旧時の痕跡が残るばかりであることが強調される。しかし「まづ高館にのぼれば」に始まる一節では、視界の中に存在している景物が数え上げられている。まるで軍記物語の登場人物が物見を行っているかのようだ。実は現実の位置関係からすればこのような風景があり得ないということが、研究者によって指摘されているのだが、それだけに芭蕉が物語的世界に入り込んでいることがわかる。「泰衡等が旧跡」は、果たして残っていたのだろうか。事実がどうであれ、「夷をふせぐとみえたり」というように、芭蕉にはそれが“見えていた”のである。
前章に続き、長々と平泉の段について考察してきたが、読者はもうその意図にお気づきであろう。たとえ幻視であれ、まざまざと目に映っている事態を前にして詩を詠むという態度は、まさに杜甫の態度にほかならない。詩句の引用箇所だけではなく、章段全体に目を向けてみると、芭蕉が確かに杜甫を継承していたことが知られるのである。

岩崎灌園『本草図譜』巻89「溲疏」。溲疏(しゅうそ)はウツギ(卯の花)の漢名。独立行政法人国立公文書館蔵(請求番号196-0189-0042)。画像は国立公文書館デジタルアーカイブ(https://www.digital.archives.go.jp/)より転載。
「春望」の現在性――その行方
「春望」を、懐古の詩としてではなく、現在を詠んだ詩として捉える。ここまでは『おくのほそ道』を手掛かりとしながら、そのような読み方を探ってきた。以下、後半では、同じように「春望」の現在性を受け止めた文学を、いくつか紹介してゆきたい。
所は中国、時代は近現代に移る。老舎(1899-1966)という作家の名を聞いたことはあるだろうか。「駱駝」とあだ名される貧しい人力車夫・祥子の人生を描いた小説『駱駝祥子』はその代表作、ほかにも随筆・戯曲・詩など多岐にわたる分野で筆をふるい、近現代中国文学を語るのには欠かせぬ存在である。
中国文学史の中で老舎を特別な存在たらしめている要素の一つに、彼のあやつる言葉がある。彼の作品、特に小説・戯曲には、北京語が活き活きと息づいているのだ。ここにいう北京語とは、普通話(現代の規範的中国語)ではない、北京土着の中国語である。北京語は普通話の基礎となった言語ではあるが、発音や語彙の面で、普通話とはかなりの隔たりがある。わかりやすくいえば、日本語の共通語と江戸・東京の下町言葉との違いになぞらえることができよう。
老舎は北京に生まれ、25歳まで産土の地で過ごした。幼少期の家庭環境もあり、彼が伝える古き北京語は、言語学者の重視するところともなっている。わたくしも言葉そのものへの関心から老舎作品を愛読する一人であるが、彼の文章は一字一句に現代中国語の滋味がにじみ出している。
「青島と山大」
1936年、老舎は山東大学の文芸誌に「青島と山大」(青島与山大)と題する一文を寄せた。「北中国の景物は、砂漠の風と黄河の水から色彩と情調を得ている。荒れた、燥いた、寒い、曠しい、砂色の色彩と情調である。砂煙が霧となり、嵐が潮となるこの北国で、青島はさながら、あの黄色い地図の縁の上にたまさか置かれた、一粒の翠玉である」。このように筆を起こした老舎は、青島の四季の風物を並べあげてゆく。
青島の四季が一通り述べられたあと、話題は山東大学(“山大”)の気風と青島との関係に移る。――大学は人間と同じように、多かれ少なかれそれが身を置いている場所の影響を受ける。山東大学は創立間もないとはいえ、青島にある以上、青島らしさを帯びないわけにはゆかない。これが人々の誤解の種となる。ダンスホールやカフェ、映画館に海水浴場などなどの娯楽世界に囲まれながら、落ち着いて勉強ができるのかと、人々は思っているようである。しかしそれは、夏の、避暑地としての青島しか知らない者の言い分である。春の山に咲く花、秋の海に浮かぶ雲は、われら山大の者だけが知っている。そして寒風吹きすさぶ冬の日のわびしさに立ち向かえるのは、われらが書を読む声とサッカー場裡の歓呼の声のみである。
「私がつねづね言っていることだが、青島で一冬過ごしたことがある人は仙人になる資格がある。われらが学生ときたら、ここで四度も冬を越すのだ!」とは、老舎一流の諧謔である。「学生たちは卒業して全員仙人になるわけではない(彼らにそんなことを期待する人もいるまいが)、しかし彼らは落ち着きのある態度をしっかりと身につけることになる」。山東大学の校舎は、かつてドイツの兵営だったもので、建物にみなぎる緊張感がなお残っているのだと、老舎はいう。
――青島は西洋化した都市ではあるが、山東大学には“山東”という土地の質朴な精神が備わっている。良く言えば、われわれは剛毅の精神の持ち主である。悪く言えば、いささか田舎っぽい。だがたとえわれわれが田舎者であろうとも、青島へ避暑にやってくる、金も暇もある者たちの贅沢と浮かれた「モダン」というやつ(“摩登”)を矯正してやっているのだと、胸を張って言える。なぜならわれらは「山東っ子」だからだ。青島にいても、体現しているのは青島の冬なのだ。
「われらが生きている限り」
山東大学の質実剛健の校風を謳いあげたのち、老舎の筆は最後の段落に進む。
海上に留まる各国の軍艦を、最も多く目にしているのはわれらである。この地の経済権が誰の手中にあるかを、最もよく知っているのはわれらである。これらは――ほかにもまだまだある――時々刻々、われらを刺激し、警告している。外見は素朴、生活は単純であろうとも、われらは赤々と燃える心を持っている。眼前の青山碧海は、いつもわれらにこう言っている。「国破れて山河在り!」ここにおいて、青島と山大は大きな意義を持つといえる。
わたくしはこの文章を読んできて、まさかここで「国破れて山河在り」の句に出会おうとは予想だにしなかった。「国破山河在!」の5字を前に、文字通り刮目したのを覚えている。ここの感嘆符は、原文のとおりである。わたくしはこの5字を、「国は破れても山河は在るぞ! 山河が在る限り、国は在るぞ!」という意味に受け取った。そして唐突なようだが、ポーランド国歌を思い出した。それはこう歌い出される。「ポーランドいまだ滅びず。われらが生きている限り」。
18世紀末、ポーランド・リトアニア共和国はプロイセン、オーストリア、ロシアの3国によって数次にわたって分割され、地図上から姿を消した。ポーランドが独立を回復するのは、約120年を経た1919年のことである。近代化の途上、日中の文学者たちは、ポーランドの命運に大きな関心を示していた。東海散士(柴四朗)の小説『佳人之奇遇』には、ポーランドの英雄タデウシュ・コシチューシコが植えた樹のもとで、ハンガリーの志士コシュート・ラヨシュがポーランドの歴史を主人公に語って聞かせる場面がある。また歌人の落合直文は「波蘭懐古」と題する詩を作っている。魯迅は詩論「摩羅詩力説」の中で、ポーランドの国民詩人アダム・ミツキェーヴィチをはじめとする詩人を取り上げ、弟・周作人と編纂した『域外小説集』にも、ヘンリク・シェンキェヴィチのような東欧作家の作品の翻訳が収められている。老舎の文とポーランド国歌とがわたくしの中で共鳴したのは、このような文学史的背景あってのことであった。
それにしても、「国破れて山河在り」の「在」の字が、かくも強い響きを立てようとは。存在を主張し、存在を決して否定させまいとする響きがここにはある。「春望」の詩でも、山河は「在」り、杜甫は「在」った。白頭を掻くことしかできなくとも、杜甫は「在」り続けねばならなかったのだった。
なぜ花は咲く
戦争の時代、いま・ここ・自分を詠んだ詩として「春望」を受け止めた中国文学者がいた。目加田誠である。読者はこの名前に見覚えがあるだろうか。前の章で掲げた「春望」の訳詩、その訳者が目加田誠である。目加田は『新釈 詩経』(岩波新書、1954年)において、時に訓読に近く、時に現代語訳に近く、しかも歌謡として味わえる絶妙な形で『詩経』の詩を翻訳しているが、「春望」の訳も単に意味を取るだけではなく、一篇の詩として成立していると感じられる。目加田訳を選んだ理由の一つはこれである。いま一度、訳詩を書き写しておこう。
国都は破れてしまったが 山河はもとのまま
長安城に春が来て 草木はまた生い茂る
世の変転に感じては花を見ても涙をそそぎ
家族との別れを恨んでは鳥の声にも心揺がす
いくさののろしは三月もやまず
家のたよりは千金にもかえがたい
嘆きつつ掻く白髪はいよいよ短く
いまは簪もさせなくなりそうだ
しかしわたくしが目加田の訳詩を載せようと思うに至ったいちばん大きなきっかけは、彼の「国破山河在」という随想に接したことである(2)。こんにち目に触れづらい文章であるため、やや長めに引用する。
終戦の翌年、私は住む家を失って、福岡の郊外、津屋崎の、とある丘の上の鶏舎に畳をしいて、一家六人がそこに住んだ。
当時は日本人のだれもが苦労したことだから、ことさら自分のことなど言おうとは思わぬが、私としては生涯におけるどん底の生活だった。
なにぶん鶏小屋のことだから、雨が降れば屋根が漏り、雪が降れば戸の隙間から粉雪が吹きこんだ。
やがて春が来た。鶏舎の丘から眺める宮地岳は、桜の名所で、山の半ばは桜にうもれて、まるで花の雲だった。
敗戦とともに世の中は激変し、わが身は家を失い、食べるものもろくに無く、妻もその小屋で病に倒れた。自分はこんなことになっているのに、花はなぜあのように、春がきたといえば、今年もまた同じように美しく咲くのであろうか。自然は、世の変転にも、人の身の悲しみにも、まるで無関心なのだ。人間の有情と、自然の無情とを、あんなに痛感したことはない。杜甫にこんな詩がある。
目加田はここで「春望」を引用する。彼は「花濺涙」「鳥驚心」の解釈を問題にしている。これらは「花も涙を濺ぎ」「鳥も心を驚かす」と擬人法で解釈されることがあるが、そうは読めないという。
しかし、杜甫はこの時、春の花を見、春の鳥をきいて、自然の無情を痛感したにちがいない。さればこそ、花を見ても自分が涙を流し、鳥をきいても自分が心を動かしたのであろう。私は自分の、このときの体験から、杜甫の詩を、このように読まずにいられない。不幸な詩人の詩を、いちばん共鳴できるのは、自分が同じ不幸に陥っているときなのかも知れない。
他者の人生に論評を加えるのは慎むべきだが、わたくしは目加田の文章を読んで、杜甫の人生を思い起こさないわけにはゆかない。杜甫もまた、「手脚は凍皴し皮肉は死す」(手足は凍えて縮こまり、肌や筋肉は何も感じなくなっている)とみずから歌うような生活を、家族とともに送っていたことがあった(3)。「病に倒れた」と記される目加田の妻は、彼らが身を寄せる小屋で世を去ったという(4)。
夏草や……
芭蕉は杜甫に迫るために、自分のほうから詩へ近づいていった。そして詩の言葉を自分の言葉に溶け込ませることで、自分にとっての現実に詩を近づけようとした。一方、老舎や目加田誠は、「国破れて山河在り」が現実のものとなることを、決して望んではいなかったはずだ。老舎や目加田誠の立場に立てば、詩のほうからこちらへ迫ってきたと言えるのではなかろうか。いや、現実が詩に追いついてしまったというべきだろうか。
考えてみると、杜甫の詩に“実感”が湧くことなど、ないほうがよいのかもしれない。芭蕉のように、杜甫の詩の状況をせいぜい幻視するだけで済むのなら、それでよいのかもしれない。実をいうと、わたくしは杜甫の詩にあまり触れたくないのだ。この文章が杜甫のまわりをただうろつくばかりとなったのも、そのためである。
なぜ触れたくないかといえば、一つには杜甫の詩に難解な句が多く、何を言おうとしているのかわからないものがしばしばあるためである。杜甫の詩は、人に胸襟を開くというより、むしろ理解を拒んでいると思えることすらある。そして二つ目に、杜甫の詩が時として深刻すぎるほど深刻だからである。わたくしは以前杜甫の詩を読んでいるとき、あまりのつらさに途中で本を閉じたことがある。他の文学者の作品でそのような経験をしたことはない。
司馬遷は『孟子』を読むたびに、「未だ嘗て書を廃して嘆ぜずんばあらず」――読むのをやめてため息をつかないためしはなかったという。わたくしにとってそのような文学は杜甫の詩である。自分自身は花に涙を濺がずとも、かつて本当に花に涙を濺いだ人たちの残した言葉に、涙をささげることはできる。閉じた本を再び開いて、彼らの言葉を見つめることにしよう。夏草に腰を下ろして。
注
- 尾形仂『おくのほそ道評釈』(角川書店、2001年)p. 250。下線部は原文では傍点による強調。
- 目加田誠「国破山河在」、『随想 秋から冬へ』、龍溪書舎、1979年。のち、目加田誠著作集第8巻『中国文学随想集』(龍溪書舎、1986年)に収める。
- 「乾元中寓居同谷縣作歌七首」(乾元中 同谷県に寓居して作れる歌 七首)の第一首。
- 目加田誠「波の音」、『随想 秋から冬へ』所収。
これまでの連載
(はみ出し! 中国文学万華鏡)国破れて山河「在り」
詩と現実が近づく
2026年11月2日
城春にして「草青みたり」
詩と現実を近づける
2026年10月1日