みすず書房

城春にして「草青みたり」

詩と現実を近づける

城春にして「草青みたり」

頃は元禄2年(1689年)、3月27日、俳人・松尾芭蕉は門弟の曽(そ)良(ら)を引き連れ、江戸・深川を出で立ち、歩むことひと月あまり、夏5月の中旬、陸(む)奥(つ)の国・平泉の土を踏みしめた。奥州藤原氏三代、清(きよ)衡(ひら)・基(もと)衡(ひら)・秀(ひで)衡(ひら)の栄華は夢のごとく消え去り、いまや田(でん)野(や)が広がるばかりである。まず芭蕉が目指したのは、かの高(たか)館(だち)の跡であった。その昔、源義経は頼朝との対立のすえ陸(みち)奥(のく)に落ち延び、平泉なる衣(ころも)河(がわの)館(たち)を居館とした。これすなわち高館で、義経最期の地である。義経は忠義の家臣をよりすぐってこの館にこもり、家来の面々は主君を守りたてまつらんと、功名を争って奮戦したが、それも空しく、野に屍(かばね)をさらす結末となった。
 『おくのほそ道』は記す。

さても義臣すぐつてこの城にこもり、功名一時の叢となる。「国破れて山河あり、城春にして草青みたり」と、笠うち敷きて、時の移るまで涙を落としはべりぬ。

 夏草や兵(つはもの)どもが夢の跡

 卯の花に兼(かね)房(ふさ)みゆる白(しら)毛(が)かな  曽良

「国破れて山河あり、城春にして草青みたり」は、言うまでもなく、杜甫の「春望」の詩を踏まえたものである。ところが詩句のもとの形は「国破れて山河在り、城春にして草木深し」(國破山河在、城春草木深)。「草木深し」のかわりに、「草青む」という和語を用いて「草青みたり」(草が青々としている)としたわけであるが、芭蕉はなぜ、このようなことをしたのであろうか。

言葉の迫真性

『おくのほそ道』は古典中の古典として、研究の蓄積は厚く、評論もあまた存在する。そんなところへ一愛好家としてあえて私見をさしはさませてもらうならば、芭蕉が「草青みたり」と記したのは、現に芭蕉の目の前で草が青々としていたからだ、と、このように思うのである。
 読者はこの説の奇矯さにさぞ呆れられることであろうが、こう考えるのには理由がないわけではない。
 試みに、この箇所で杜甫の詩を原文どおりに引用してみたら、どうなるであろうか。

さても義臣すぐつてこの城にこもり、功名一時の叢となる。「国破れて山河あり、城春にして草木深し」と、笠うち敷きて、時の移るまで涙を落としはべりぬ。

わたくしの目には、「国破れて山河あり、城春にして草木深し」が、何やら浮いて見える。とってつけたような引用に見えてしまうのだ。「これぞまさしく」などと言ってことわざを引いて決まり文句めかす、そんな引用に見える。そのあおりを受けて、続く「時刻が過ぎるまで涙を落としたことだ」というくだりも、そらぞらしく響いてこないだろうか。
 一方、「草青みたり」とすれば、青々とした草が目の前に見えてくる。青々とした草を見ている芭蕉の姿も見えてくる。それでこそ、「笠うち敷きて」――草の上に笠を敷き、そこに腰を下ろして「涙を落と」すという身体の動きが読む者に自然に受け止められ、「夏草」の句にもなめらかにつながってゆく。『おくのほそ道』には虚構がふんだんにちりばめられており、主人公と現実の芭蕉とを安易に同一視できないことを承知の上で先ほどは「芭蕉の目の前で草が青々としていた」と書いたのだが、要は「草青みたり」という言葉の迫真性・臨場感を問題にしたかったのである。

杜甫の詩の実践

だが、いま述べたことに増して強調したいのは、芭蕉が杜甫の詩を改変して引用したという事実そのものである。芭蕉にとって杜甫の言葉は、もはや芭蕉自身の言葉になっていたのではないか。「笠うち敷きて、時の移るまで涙を落としはべりぬ」というひとくだりに隠されたからくりをひもとくと、そのように思えてくる。
 杜甫に「玉(ぎょく)華(か)宮(きゅう)」という詩がある。玉華宮とは、唐の第2代皇帝・太宗の離宮である。安禄山の乱がおさまったのち、杜甫は旅の途中で玉華宮の跡を訪れた。しかし廃墟となって年久しく、往時の豪奢・歓楽のさまは偲ぶよしとてなかった。
 詩は次のように閉じられる。

憂(うれ)へ来たりて草を藉(し)いて坐(ざ)し
 浩(こう)歌(か)すれば 涙 把(は)に盈(み)つ
 冉(ぜん)冉(ぜん)たる征(せい)途(と)の間(かん)
 誰(たれ)か是(こ)れ長(ちょう)年(ねん)なる者ぞ

  憂來藉草坐
  浩歌涙盈把
  冉冉征途間
  誰是長年者

 物思いの湧くまま、草をしとねにすわって、声高く歌えば、こぼれ落ちる涙は受けようとする手にあふれるほど。思えば絶えまなく進む旅路のうちで(それは今のこの旅路でもあり、人生という大きな旅でもある)、永遠の生命を保ち得るものといったら、誰があるだろうか。――誰もこのように、いずれは亡び去ってゆくのだ。(前野直彬訳(1))

 

旅の途中に古跡を訪(とぶら)い、草に腰を下ろして涙を流す。これは芭蕉そのものではないか。訳文の「それは今のこの旅路でもあり、人生という大きな旅でもある」という言葉は、訳者の前(まえ)野(の)直(なお)彬(あき)が原文の意を補ったものであるが、こう補われるとひときわ芭蕉そのものであると感ずる。いや、順序としては逆であって、芭蕉が杜甫そのものなのだ。
 「笠うち敷きて、時の移るまで涙を落としはべりぬ」において、芭蕉は杜甫の言葉を引用するのではなく、むしろ引用であることを隠しつつ、杜甫と同じ行動をしている。芭蕉は杜甫を引用しているのではない。杜甫の真似をしているのだ。
 杜甫と一体化している芭蕉にとって、「草木深し」を「草青みたり」というように、場面や文脈に合わせて改めることは、さして不自然なことではなかっただろう。芭蕉は論文を書いているわけではない。原文の言葉を自分の言葉と区別して正確に引用する、といった意識は持っていなかっただろう。引用符があったわけでもなく、表記の上でも芭蕉の言葉と杜甫の言葉は溶け合っている。
 さて、ここまで長々と『おくのほそ道』平泉の段について述べてきたのは、『おくのほそ道』の評釈をするためではなく、ましてや新説を示すためでもない。ただ芭蕉が杜甫の詩句にどう向き合っているかを見ることで、いかにして詩と距離を縮めるかという問題について、いささかの知見を得ようとしたに過ぎない。一方では詩の言葉を飲み込んで自分の言葉としてしまうことによって、もう一方では詩を“実践”することによって、芭蕉は杜甫に迫ろうとした。古典へのアプローチとして、何とも刺激的ではないか。

人なき都

芭蕉が杜甫にどう迫ったかはよいとして、そもそも「春望」は何を詠った詩なのだろうか。改めて詩全体を見てみよう。

 春望  杜甫
 国破れて山河在り
 城春にして草木深し
 時に感じて花にも涙を濺(そそ)ぎ
 別れを恨んで鳥にも心を驚かす
 烽(ほう)火(か) 三(さん)月(げつ)に連なり
 家(か)書(しょ) 万(ばん)金(きん)に抵(あた)る
 白(はく)頭(とう)掻けば更に短く
 渾(すべ)て簪(しん)に勝(た)へざらんと欲す

  國破山河在
  城春草木深
  感時花濺涙
  恨別鳥驚心
  烽火連三月
  家書抵萬金
  白頭搔更短
  渾欲不勝簪

 国都は破れてしまったが 山河はもとのまま
 長安城に春が来て 草木はまた生い茂る
 世の変転に感じては花を見ても涙をそそぎ
 家族との別れを恨んでは鳥の声にも心揺がす
 いくさののろしは三月もやまず
 家のたよりは千金にもかえがたい
 嘆きつつ掻く白髪はいよいよ短く
 いまは簪(かざし)もさせなくなりそうだ   (目加田誠訳(2))

この詩の背景をなすのは、大唐帝国を崩壊寸前にまで追い込んだ、安禄山の乱である。天宝14載(3)(755年)11月、安禄山は総勢15万の兵を率い、首都・長安を目指して進軍を開始、翌年6月には玄宗皇帝が都より逃れ、その後数日にして反乱軍は長安に入城した。同年7月、新帝・粛宗が即位。このとき杜甫は家族とともに北方の町に避難していた。やがて新帝即位の報を聞き、唐朝再興のために立ち働かんと都に馳せ参ずる途中、賊軍に捕らわれ長安に送られてしまう。反乱軍の手中に落ちた都の中で、孤独な軟禁生活が始まる。家族は北方に残したままであった。
 ついこの間まで、太平を謳う人々の笑い声や弦歌のさざめきに満ちていた大路・小路に、軍馬の蹄が響く――と言いたいところだが、「春望」の詩から感じられるのは、異様なまでの静けさである。人の気配が、ない。まるで存在するのは「山河」だけ、「草木」だけ、「花」だけ、「鳥」だけになってしまったかのように。もしかして作者は、「人間らしい人間はいなくなってしまった」と言いたがっているのだろうか。
 自然の景物が描き出される前半に対し、詩の後半に入ると「烽火」「家書」のように、人間に関わる事物が詠みこまれる。特に注目したいのは「烽火 三月に連なり」の句である。「いくさののろしは三月もやまず」。戦争はなおも続いているのだ。このことは強調しておきたいところである。
 というのも、「春望」の詩についてそれなりに考えるようになる前の自分を省みると、「国破れ」たのは昔のことで、時が流れたのちに「山河在り」の状態になった、といった受け止め方をしていた節があるからである。これに関して思い出すものに、市川崑監督の映画『犬神家の一族』の一場面がある。金田一耕助が旅館の窓から身を乗り出して、湖と山並みを眺める。青葉の季節である。金田一耕助はここで「『国破れて山河在り』か」と、しみじみとつぶやく。その様子には、戦争に敗れながら美しい山河を取り戻したことへの安心感のようなものすらうかがわれる。映画の鑑賞者は、この金田一耕助の態度、この場面で「国破れて山河在り」とつぶやくことに対して、違和感を覚えないと思われる(なお、このセリフは横溝正史の原作小説にはない)。
 しかし、もとの詩が描いているのは全く違った状況なのであった。時は流れる。戦争は続く。刻々と展開する事態を、自分は頭を掻きながら傍観することしかできない。この詩を読んでいると、そういう疎外感や焦燥感に包まれる心地がする。

公共的感覚

「国破る」と「山河在り」は、同一の時空に存在している事態である。にもかかわらず二つの事態の間に時間差を感じてしまいそうになるのは、なぜだろうか。理由の一つとしては、史跡を訪ねて過去に思いを馳せる“懐古”という趣向が漢詩に多く見られることが挙げられよう。興味深いのは、「春望」と共通する詩語をそのような趣向のもとに用いている漢詩が残されていることである。
 明代に編纂された唐詩の選集、その名も『唐詩選』は、日本でも江戸時代以降、非常によく読まれた書物である。先ほど引いた杜甫の「玉華宮」も『唐詩選』に収められている。ここで紹介したいのは、この選集に見える次のような詩である。

 慈(じ)恩(おん)塔(とう)に題す  荊(けい)叔(しゅく)
 漢(かん)国(こく) 山河在り
 秦(しん)陵(りょう) 草(そう)樹(じゅ)深し
 暮(ぼ)雲(うん) 千里の色
 処として心を傷ましめざるは無し

   題慈恩塔  荊叔
  漢國山河在
  秦陵草樹深
  暮雲千里色
  無處不傷心

 その昔の漢の国土には、山河が変らぬ姿を残しているが、秦の皇帝の陵墓には、草や木がふかぶかと生い茂るばかりである。日暮れの雲は千里のかなたまでも、夕べの色をたたえ、どこを眺めやっても、心をいたませぬところはない。(前野直彬訳(4))

「山河在り」「草樹深し」という表現は「春望」に酷似し、「国」「心」といった文字も「春望」と共通している。内容は、すでに滅んだ秦漢帝国と目の前の大自然とを対比し、悠久の自然を前に人間の営みのはかなさを思って「心を傷」めるというもので、詩の仕立て方として非常に理解しやすい。
 実のところ、この詩の素性はよくわからない。そもそも作者・荊叔とは何者であるかが杳(よう)として知れず、「春望」との前後関係もはっきりしない。作者が慈恩寺の大雁塔に登り、そこからの眺望を詠んで塔の壁に書きつけた(=題した)ものととりあえずは理解されているが、大雁塔の上にこの詩を刻んだ石があったと伝えられる一方で、別の場所の山の上にそのような石刻があったとも言われている。
 慈恩寺は長安の大寺院で、唐代には藤や牡丹の名所として知られた。大雁塔は、かの三蔵法師・玄奘(げんじょう)​​​​​​​が、天竺から持ち来たった仏像や経典を保管するため、時の皇帝に建立を請願して建てられた塔に由来する。大雁塔は、いわば長安のランドマークである。そのような場所にこの詩が書きつけられ、しかも石刻の形で残されたという伝承が仮に真実であるならば、この詩は作者の心の中だけに留まる個人的なものではなく、一種の公共性を帯びた詩だと言うことができる。山の上にあったとしても同様である。内容の面でも用いている文字の面でも、決して難解とは言えず、名勝・史跡の石碑に刻まれる詩としてふさわしいように思われる。詩碑があったのがどこであれ、それを目にした旅人は、誰しも「なるほど」とうなずいて、千里のかなたまで広がる景色へまなざしを転じたことであろう。


下の図版は「雁塔聖教序」(唐・永徽4年(653年))。太宗・高宗が玄奘の功績を称えた文。書は褚遂良により、楷書の代表的古典の一つ。石碑は大雁塔に現存。画像の拓本は東京国立博物館蔵。出典:ColBase(https://colbase.nich.go.jp/collection_items/tnm/TB-354)

詩に近づく・詩を近づける

『おくのほそ道』の文脈に置かれた「春望」は、荊叔の詩に接近しているようである。芭蕉にとって、義経最期の合戦は遠い昔のことであり、戦争・戦闘が眼前に展開しているわけではない。その点、芭蕉が平泉の段で描いていることと、杜甫がもともと「春望」で描いていることは、ややずれているといえるかもしれない。杜甫の詩との距離を縮めるために、芭蕉は彼のほうから杜甫へ近づいていっただけではなく、自分の現実のほうへ、杜甫の詩を半ば無理やり引き寄せたわけである。
 もっとも、芭蕉のみならず、古典文学の作者は、他者の言葉を引用する際、表現面でも内容面でも“忠実に”引用する義務を負っていたわけではない。ただ、われわれが「春望」について考えるとき、実は芭蕉のレンズを通して「春望」を理解していたのではないか、そうわたくしは問うてみたかったのである。
 しかしここで、新たにこう問うこともできる。芭蕉のレンズは、杜甫像を歪めるレンズだったのか。平泉の段と「春望」の詩は、本当にずれているのか。この続きは次回、考えてゆくことにしたい。

注

  1. 前野直彬[注解]『唐詩選(上)』(岩波文庫、2000年)p. 53。
  2. 目加田誠[訳注]『唐詩三百首 2』(平凡社東洋文庫、1975年)pp. 43-44。
  3. 天宝年間は天宝3年以降、「年」に代わって「載」という語を用いた。
  4. 前野直彬[注解]『唐詩選(中)』(岩波文庫、2000年)p. 438。

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