みすず書房

質か量か(1)

質か量か(1)

通常の3倍

ミーティングで悪乗りして同世代の友人とガンダムネタで盛り上がってしまい、周囲を置き去りにしてしまってから後で反省することがしばしばある。「それはすごい効果ですね」「ざっと通常の3倍かな」「きっと赤いはず」といった具合だ。元ネタは敵の戦闘ロボット(主人公のライバルが操縦しており、機体は赤く塗られている)が「通常の3倍のスピード」で迫りくる有名な場面である。敵の凄さ(なにせ通常の3倍である)を一瞬で視聴者に分からせる名セリフなのだが、ふと冷静になってみると、何が通常で、その3倍が時速何キロで、ということは何分何秒後に接敵するのかといった、戦闘場面で必要な情報が欠けていることに気づく。「3倍」という数は、なんだかとにかく尋常でないことを表すための、ほとんど記号と化している。

わざわざこんな話をしたのは、もちろん心理学に関係するからだ。効果量(effect size)という概念を扱うときに「通常の3倍」という表現がちょっと面白いのだ。しかし、そのことに入る前に少し寄り道をしたい。質と量の違いである。

専門用語と文脈

心理学において、対象とする概念(心理構成概念)の定義が重要であることは、この連載でくり返し述べてきた。そして概念や語の定義は、それが埋め込まれた文脈の把握抜きには理解できないことを前回は議論した。「通常の3倍」といったフレーズの意味をきちんと理解し適切に運用できるようになるには、作品全体の視聴が欠かせない。以前、ガンダムネタで盛り上がりすぎたことを他の参加者に詫びたら「いちおう履修したんで大丈夫です」と言われたことがある。履修とは上手いことを言ったものである。大学などで講義を履修することもまた、対象の学問領域の文脈を丸ごと修めることで、そこで用いられる専門用語を理解し運用できるようになることだからだ。

ところでそうした専門用語の中には、一見したところ分かりやすそうな顔をしたものが紛れ込んでいることがあり、厄介である。例えば「⚪︎⚪︎という概念はまだ✕✕学の述語となっていない」といった表現がある。述語といえば主語とセットで使われるものとして英文法の授業で多くの人が慣れ親しんでいる単語であろう。「ああなるほど述語ね」と一瞬分かった気になってしまいそうだが、読み進めるとすぐにそれでは意味が通じないことに気がつく。実はこの時の「述語」は「専門用語」「テクニカルターム」といった意味の“専門用語”であり、文法について語る時の「述語」とは(なんらかの関連はあるのだろうが)違うものなのだ。このように日常的に使われる語が、ある学問分野の“述語”として異なる意味を持つことがしばしばある(1)。 

アプローチの質と量

一つの学問分野の中であっても、文脈によって同じ語が異なる意味で使われる場合がある。初学者には文脈の切れ目がどこにあるのか見えにくく混乱すること必至で、そうしたものの一つが心理学における「質」と「量」という対概念だろう(2)。

一般には「質か量か」といえば、限られた予算で何か(例えばコーヒー豆)を買うときに、質を重視して量の少なさを妥協するか、量を重視して質には目を瞑るかといった意味だろう。これが心理学で「質か量か」というと話は随分と違ってくる。日本心理学会の大会会場で、たまたま昼食時にテーブルを共にした心理学者から「ところであなたは質ですか? それとも量ですか?」と尋ねられたら、それは昼食のメニュー選びの基準のことでもなければ、研究発表におけるアプローチ(こだわり抜いた少数の研究を発表するか、粗製濫造の誹りをものともせず大量の研究を次々と発表するか)についての質問でもない。もっと根本的な心理学への態度を尋ねられていて、回答によって「こいつとは専門的な話ができそうだ」と思ってもらえるか、「会場周辺のグルメ情報の話でもふってお茶を濁そう」と思われるかの瀬戸際にある。そういう緊張を伴う質問なのだ。

いささか大仰な表現をしたが、ここでの「質」と「量」とは、研究手法として質的なアプローチを採用しているのか、それとも量的なアプローチを採っているのか、という意味である。これらは定性的/定量的と表現されることもある。英語だとqualitativeとquantativeになる。語弊を恐れず単純化すると、なんらかの数字をデータとして収集して、それらを数学(統計手法)を使って分析するのが量的/定量的/quantativeなアプローチということになる。それに対して、数字にならないデータを集めて分析するのが質的/定性的/qualitativeなアプローチである。例えばインタビューなどを通じて人々の言葉を集め、それを数値へと変換したりせずに分析するのが質的研究である。なるほど、この連載でここまで扱ってきたのは徹頭徹尾、定量的なアプローチだったのかと気づいた読者も少なくないだろう。

質を選ぶか、量を選ぶか

ところで心理学界の外の方にはあまり知られていないことだが、こと心理学にかんして言えば、量的研究をする人と、質的研究をする人とは、ほとんど重なっていない。「質も量も」できるのはごく一部のスーパーな人に限られるのだ(3)。量的研究者の側には、安易に質的アプローチに手を出すなど畏れ多いという気持ちがあるし、質的研究者の方々と話をすると、逆もまた然りのようである。

その一方で両者の間には、互いへの微妙な感情があることもまた否めない。量的研究者には、数字という(一見したところ)客観的なデータを集め、それを統計という(一見したところ)価値中立的な手法で分析することで、心にかんする客観的でゆるぎのない科学的知見を得ているという自信がある。他方で質的研究者にも、数字にする過程でこぼれ落ちる(またはこそぎ落とされる)大事なものを丁寧に見ていることへの自負があるだろう。

大学で心理学を学ぶ学生たちは、二つの異なるアプローチのそれぞれから熱心な宣伝(授業)を受け、そして卒業論文を書くゼミナールを選ぶ時にいずれかを選択する。どちらの手法でも指導できる教員などまずいないからだ。そして、その時の選択のまま大学院に進み、心理学の専門家となる人が大半である。心理学者にとって「質か量か」というのはかなり自覚的な選択の結果であり、それゆえ、異なるアプローチへの敬意はありつつも、自ら選んだアプローチへの愛と執着は、なかなかに除き難い。

かくして両者の間には愛憎の入り混じった複雑な感情が渦巻き、それが時として軋轢を生んだりするのだが、そんな内部事情を詳らかにしたとして誰も幸せにならないので、この辺にしておこう。一言だけ述べておくのならば、筆者は定量的アプローチで訓練を受けてきた研究者であり、そうした来歴は他の心理学者からすれば火を見るより明らかである。質的心理学者の方々が本連載のタイトル(「心理学の現在地を読み解く」)に対し「ずいぶんと大きい主語ですね」と不満を持たれるであろうことは自覚しているし、強気なタイトルを付けすぎた反省/後悔がないかと言えば嘘になる(4)。

変数とは

卒業論文を書くにあたって「質か量か」を選択するということは、逆に言えば、そこに至るまでの間は、心理学を専攻する学生は質も量も学ぶということでもある。質的なアプローチの代表とも言える臨床心理学やカウンセリングを学ぶつもりで入学した学生でも、そのカリキュラムには統計が必修科目として含まれるのが通常である。そしてこの統計の学習でもう一つの「質と量」が出てくる。すなわち「質的変数」と「量的変数」である。心理学の中には、二種類の「質と量」があるのだ。

変数とはvariableの訳である。vary + ableでvariableなので、変わることのできるモノということになるだろうか。何が変わることができるのかというと、大雑把に言えば、対象(例えば一人ひとりの人間)によって、そこに入る値が変わりうるという意味である。例えば日本国籍をもっている人をランダムに1000人選んでアンケート調査に回答してもらったとする。この時に年齢の情報を集めていたのならば、それは変数となる。回答者ごとに「年齢」は違う値となるはずだからだ。他方、その調査において国籍は変数ではなく定数となる。回答者全員が日本国籍を持っているからだ。変数、定数と“数”が入っているので、そこに入るべきなのは“数値”のような気がしてしまうが、そうとは限らない。「日本」とか「A」とか「※」とか、理屈の上では何でもよい。

ほとんどの量的な心理学研究は、この変数の間の関係を明らかにしようとするものである。ある変数(例:年齢)が違うことと、別の変数(例:ガンダムについての知識量)が違うことの間に、どのような関係があるのかを研究するわけだ。例えばある年齢層(団塊ジュニア)をピークに、ガンダムについての知識量が逆U字を描くことが明らかになるかも知れない。団塊ジュニアはガンダムに詳しいが、それより年齢が上がる/下がるにつれて、知識量が減っていくということだ。このように二つの変数の関係だけを扱うこともあれば、より多くの変数の関係を扱うこともある。「年齢とジェンダーの組み合わせで、ガンダムについての知識がどう変わるのか」といった塩梅である。逆U字の関係は男性においてより顕著かも知れない。複数国で調査を行えば「国籍」を変数とした分析も可能となる。

変数の質と量

さて、心理学の統計の授業の導入では、この変数に複数の種類があることが高らかに宣言される。それが先述の質的変数と量的変数である。質的変数とは、対象の“質的な違い”を反映する変数である。先ほどあげたジェンダーや国籍は一般に質的な変数とされる。国籍という変数に入る値は“日本”や“韓国”、“ベトナム”など国名であり、これらは大小や多少といった量的な性質を持たず、数値化できるものではないからである。

量的変数のほうを考えてみよう。例えばメートル法の質量の単位(kgなど)で体重を測定すると、これは量的変数である。ある三人組――Aさん(60kg)、Bさん(30kg)、Cさん(90kg)――における体重の数値の大小関係(C>A>B)は、現実の質量の大小関係を反映している。加えて3人の体重を足し合わせた数値もちゃんと現実と対応する。別の三人組――Lさん(63kg)、Mさん(60kg)、Nさん(57kg)――がいたとして、彼女らの合計体重と、A、B、Cの三人の合計体重は等しい。この時、A、B、Cの三人が載ったエレベータを1フロア分持ち上げるのに必要なエネルギーは、L、M、Nの三人が載ったエレベータを同じく1フロア分持ち上げる時のエネルギーと等しいという推論が正しいことが保証される。つまり量的変数では足し算や掛け算といった数的な処理を行うことができる。

などなど。心理学専攻を選んだ多くの学生は統計入門の講義の初回か二回目くらいでこうした話を延々ときかされ、練習問題と称して、さまざまな変数が量的か質的なものか答えさせられる。さらに細分化した「名義尺度」「順序尺度」「間隔尺度」「比例尺度」への分類クイズも必須なのだが、この話はここらへんで止めにしておこう。

質より量か?

心理学には少なくとも二種類の「質と量」があるということを述べた。それでは質的変数を扱うのが質的なアプローチの心理学で、量的変数を扱うのが量的なアプローチの心理学なのかというと、そうした対応は全くない。質的心理学でも「年齢」や「教育年数」といった量的な情報が重要となる場面は少なくないだろうし、量的心理学でも「ジェンダー」や「職業」といった質的変数を扱うことは普通である。むしろ「変数」という概念は量的心理学がよく使うものなので、変数にかかわる「質」と「量」は、量的心理学の“述語”(専門用語・概念)と整理するほうが正確だろう。

そうは言ってもやっぱり量的心理学がご専門なんだから、どっちが好きかと言えば量的変数の方がお好きなのでしょう? と思われるかも知れない。ご明察である。量で集められそうなデータならば、出来るかぎり量で集め、量で保存し、量のまま分析したいというのが、量的心理学者の気持ちである。大学では学生の成績を秀(S)、優(A)、良(B)、可(C)、不可(D)の評点で付けることが多い。せっかくこまかく(例えば100点満点で)採点したものを、5段階の順序関係しか情報が残らない評点へと変換することに歯ぎしりしている同業者は少なくないだろう。

それならば全ての成績を100点満点でつけるべきかと言えば、必ずしもそうとも言えない。ディスカッション主体の演習で「Tさんの今学期の議論への貢献は100点満点で言えば?」などと言われても困ってしまうことは想像に難くない。「すごくとても良かった」「とても良かった」「良かった」「まあ良し」「がんばろう」くらいがせいぜいではないだろうか。ざっくりした評価のほうが適切なこともありそうだ。

しかし量的心理学者として、ここはもう少し粘ってみたい。「議論への貢献」という観点を細分化してみたらどうだろう。「今日の授業でのTさんは、新しい視点の提供という点ではどれくらい良かった?」「論理的な展開という点では?」「論理の矛盾の指摘という点では?」「議論の整理という点では?」と評価項目を分けてみて、それぞれ5段階で採点する。それから合計点を出したらどうだろう。評価軸が4つあり、それぞれを1〜5点で評価すれば、4〜20点での採点結果を得ることができる。これを全15回の講義で行って合計すれば、60〜300点というきめ細かい「数量的な評価」を得ることができる。

ここまで読んだところで、前に出てきたシゴデキ尺度を思い出した読者がいらしたら誠に喜ばしい。「締切が迫っていても、作業の質を大きく落とさずに対応できる」といった文章が自分に当てはまるかどうかについて、「全く当てはまらない(1点)」から「よく当てはまる(5点)」の5段階で回答してもらったアレである。シゴデキ尺度ではこうした質問文を複数用意しておいて、それらへの回答の合計点をもってシゴデキ得点としていた。上で提案した「議論への貢献度」と同じやり方であることが分かる。何を隠そう、このような方法(リッカート法)は心理学者が考えたものである。その狙いは心理構成概念(シゴデキ度、外向性、知性など)の個人差を数量化すること、つまり量的変数を手に入れることにあった。わざわざ測り方を一生懸命に考えるほどには、量的心理学者は量的変数を欲してきたのだ。もっと正確に言えば、心のさまざまな側面(心理構成概念)を量的変数として扱う目処がたったからこそ、量的心理学が可能になったのである。量的心理学者が、自らの拠って立つ学問の基盤を支える量的変数を愛さないわけがないのだ(5)。

通常の何倍?

そうして苦労して測った「量」であるが、その数字の具体的な意味が何なのか考え始めると、存外難しいことを前回の最後で述べた。例えばシゴデキにかんする文章4つに1〜5点で回答し、その合計点をシゴデキ得点としよう。得点の幅は4点(全て1点)から20点(全て5点)となる。そんなシゴデキ尺度で19点をとったらかなりのシゴデキなのかと言えば、必ずしもそうとは限らない。例えばある会社で社員のほとんどが20点満点だったとする。19点の社員は、その会社内での相対評価という文脈においては、取り立ててシゴデキではない。結局文脈抜きには、特定の点数の意味を語るのは難しいことがわかる。

そう。ここに来てようやく冒頭の「通常の3倍」の話になる。ガンダム未修者のために簡単に振り返っておくと、敵ロボットの性能が極めて高いことを「通常の3倍のスピード(で敵ロボットが迫ってきます)」というセリフで表現したのであった。ここで注目したいのは、具体的な速度は一切述べられていないにもかかわらず、「3倍」と言われると、なんかとにかくすごいらしいことが、なんとなく分かってしまうところである。

逆のパターンを考えてみよう。ここで「ザクです! 時速3,000キロです!」というセリフを使ったらどうだろう。現代の基準で考えれば十分に速いが、舞台は人間が宇宙空間で普通に暮らしている時代である。そんな遠い未来でもまだ時速3,000キロが速いと言えるのかどうかは、実はよくわからない。「あー、3000キロね。余裕よゆう」なのか「え! そりゃまずい! まずいよ!!」なのか、数字だけからは分からないということだ。声優の演技に頼って「なんかすごいらしい」と思わせることは可能だろうが、セリフそのものの「分からせ力」は弱いと言わざるを得ない。そこを「通常の」という表現によって「未来世界の常識的なスピードの3倍なんだ! そりゃすごい!」と、文脈を無理やり織り込んで一瞬で分からせているのが、かのセリフなのだ。そりゃすごい。

それならシゴデキ得点も同じように「通常の1.5倍のシゴデキです」などと言えば、文脈を織り込んでそのすごさを表現できそうだ。なるほど悪くない手だが、もうひと工夫が欲しい。「通常は、どれくらい通常から外れているのか」という点も加味したいのである。

例えば100点満点のテストで平均点が30点だったとする。まずはこの平均点を「通常」とすることを認めよう。さて、ある人が60点、つまり通常の2倍だったとする。3倍には劣るもののなかなかすごそうだが、以下の二つの場面で、そのすごさは違ってこないだろうか。

 A. ほとんどの人が25〜35点である中で、60点を取った。
 B. 0点から100点までさまざまな得点の人がいる中で、60点を取った。

そもそも35点以上が稀な中での60点と、100点の人もいる中での60点ならば、前者のほうが(稀に見る高得点という意味において)よりすごそうだ。ばらつきが小さい中で通常から外れることと、ばらつきが大きいところで通常から外れることでは、仮に通常との得点差が同じでも、その意味は異なる。単純に「通常のX倍」と表現するだけでは、この文脈がこぼれ落ちてしまう。

通常から外れる? 外れない?

どうすればよいだろう。そこで得点がばらつく程度を標準偏差(standard deviation)として数値化して、それを単位として「どれくらい通常から外れているのか」を表す方法がよく使われる(標準偏差の計算方法は注に書いておいた)(6)。ばらつきが大きいほど標準偏差は大きくなる。上記の例なら、AよりBのほうが標準偏差は大きい値になる。仮にAのそれが5で、Bのそれが20だったとしよう。次に、通常との差(平均点との差)が、この標準偏差いくつ分になるのかを考えるのだ。例えばこんな感じである。

 A. 平均30点、標準偏差5のテストで、60点を取った
   a. 平均との差(30点)は標準偏差(5)の6倍
   b. つまり通常との差は標準偏差6コ分(つまり標準得点は6点)
   c. 偏差値は110(50+6×10)

 B. 平均30点、標準偏差20のテストで、60点を取った
   a. 平均との差(30点)は標準偏差(20)の1.5倍
   b. つまり通常との差は標準偏差1.5コ分(つまり標準得点は1.5点)
   c. 偏差値は65(50+1.5×10)

通常(平均)との差が同じ30点であっても、「ばらつきを加味した通常との差」で考えると、ずいぶん違って見えることがわかる。Aのテストで60点をとることのほうが、Bで60点とるよりも(平均点からの差は同じなのに)ずっとすごいことになる。

このように計算した平均との差を標準得点と呼んだりする。この標準得点にもう少し手を加えたのが、入試などで馴染み深い偏差値である。上に「通常の2倍」が、Aの文脈とBの文脈、それぞれで偏差値としていくつになるのかも示しておいた。Aのほうが遥かに偏差値が高いことがわかる(偏差値の計算方法は脚注に示した)(7)。実際、Aの例はやりすぎで、模試でこんな偏差値(110)を見かけることはまずないだろう。

効果の大きさを数字にする

標準偏差を「単位」として、通常(多くの場合は平均値)との差を表すというやり方は、二つのグループがどれくらい異なっているかを示すことにも応用できる。例えば女性と男性の年収の差を示すときに、女性の平均年収と男性の平均年収の差を計算し、それが標準偏差の何個ぶんなのかを計算してやればよい(8)。このようにして得られた値を、考案者の名前をとってCohenのdと呼ぶ。

こうした数値は、何かの工夫をしたり、逆に手を抜いたりした時の効果の大きさを表すことにも使える。例えば連載の第4回・第5回で、スーパーより肉屋で肉を買ったときのほうが生姜焼きは旨いのか、科学的に検証する方法を考えた。スーパー肉の生姜焼きを100回、肉屋肉の生姜焼きで100回、それぞれ試食をくり返し、味を比較するという話である。

仮に前者の平均点が16点、後者のそれが18点だったとしよう。差は2点である。生姜焼きの出来栄えとか、試食して採点する人の好みや空腹具合、体調などさまざまな理由で評点はある程度はバラつくはずで、そのばらつき度(標準偏差)を計算してみたら4だったとする。このとき両者の平均点の差(2点)は、標準偏差(4)の半分、すなわち0.5である。この0.5という数値は、(スーパーで買うことと比べて)肉屋で肉を買うことによる味の向上効果を表している。それゆえこうした数値は効果量(effect size)と呼ばれる。正確に言えば、もともとの平均点の差(2点)も肉屋の効果を表している。そうした素の効果量を、ばらつき(標準偏差)を考慮にいれて評価し直したのが0.5という値で、こちらは標準化効果量と呼ばれる(9)。

標準化が削るもの

このようにしてようやく、量的変数の値がどれほどの意味を持つものなのか判断する手がかり(標準得点や偏差値、標準化効果量)が手に入った、ように思える。ずいぶんややこしい計算に付き合ったのだから、これらを使えば心理構成概念にかかわる「量」の意味――シゴデキ得点が20点満点中で19点であることは、どれくらい偉いのか――が分かるのだろうと期待されるかも知れない。しかし実のところ、そうは問屋がおろさない。

確かに「通常の3倍のスピード」とか「シゴデキ偏差値70です」などと言われれば、その兵器や人物が、置かれた文脈でどれくらい通常から外れた性能や能力を持っているのかを示すことはできる。しかし実は、これらの値を計算する途中で「時速何キロ」といった具体的な単位は失われてしまう。そのため、冒頭でも述べたとおり、通常の3倍の速度で迫りくる敵ロボットと今から何分後何秒後に接触するのかといった具体的なことは、この情報だけでは分からなくなってしまう。「通常の3倍のスピードです!」という文句は、ある意味「すごく速いです!」と言っているのと同じである。それだけでは、現場ではほとんど役に立たない。

同じことはシゴデキについても言える。シゴデキ偏差値70と言えば、稀に見るシゴデキな人物であろうことは分かる。しかしその人物が、会社や組織で具体的にどういったパフォーマンス(例えば営業成績をどれだけ伸ばしてくれるか、チームの軋轢を何割減らしてくれるのか)といったことは、この情報だけでは分からない。効果量も同様である。「肉屋の効果はCohenのdで0.5です」などと言うと、何か専門的でカッコいいことを言っている感は出せるものの、肉屋の肉で作った生姜焼きがどれだけ美味いのか、現実的なところは分からないのだ。

かくして、量的な変数を集めるために測定をがんばり、ややこしい標準偏差や標準化効果量の計算もがんばり、なんとか集めた数値の意味を把握しようとしてきたものの、まだ何かが足りないということになってしまった。それどころか、こと量的心理学にかんして言えば、あたかも脚本家が「3倍」を「すごさ」の記号として使ったように、苦労して集めた数値を「なんかすごい」ことの記号としてしまっていることが少なくない現状をいよいよ指摘しようと思ったら、紙幅が尽きた。「質か量か」という問題について、次回もお付き合いいただきたい。

注

  1. 心理学が用いる心理構成概念の多くもこれに該当する。例えば性格、感情、適応、態度、知能あるいは知性と言った構成概念は、日常生活で用いられるそれとは時に微妙に、時に大きく異なる。
  2. また違うパターンとして、一つの学問分野の中で、ほぼ同じものを指す概念が、文脈によって違う語によって示されることもある。例えば統計分析における目的変数と従属変数、説明変数と独立変数などは、それに相当すると言えるだろう。
  3. これは学問分野によっても異なるようで、同僚から聞いた話によると、質と量の両方からアプローチすることがむしろ高く評価される分野もあるそうだ。
  4. いずれ連載で質的心理学と量的心理学の関係についても取り上げたいと計画しており、なんとかそこに到達したいと考えている。
  5. もちろんそんな乱暴なやり方(いくつかの質問に5段階で答えてもらってから、それを合算する)で良いのかという疑問が出るのは当然であり、それだからこそ心理学者は尺度の品質保証(信頼性や妥当性)に躍起になるのであり、だからこそ本連載は尺度のことだけで数回を費やしたのである。
  6. 標準偏差の計算方法は以下の通り。対象者一人ひとりの値と平均の差を計算し、それを2乗する。それを全員ぶん合計してから人数で割る(つまり平均を求める)。得られた数値の平方根をとると標準偏差となる。平方根をとる前の数値を分散という。Aさん(60kg)、Bさん(30kg)、Cさん(90kg)の標準偏差、Lさん(63kg)、Mさん(60kg)、Nさん(57kg)の標準偏差は以下の通り。それぞれ「みんながどれくらい平均から外れているか」という値になっていることが分かる。ただし二乗の平均を取っているため、「平均からの外れ方の平均」にはなっていないことに注意。

    A、B、Cの平均体重は60kg
    平均との差はそれぞれ、0(Aさん)、−30(Bさん)、+30(Cさん)
    平均との差の二乗はそれぞれ、0(Aさん)、900(Bさん)、900(Cさん)
    平均との差の二乗の合計は1800:0+900+900
    分散は600(1800/3):標準偏差は約24.49(600の平方根)

    L、M、Nの平均体重は60kg
    平均との差はそれぞれ、0(Lさん)、−3(Mさん)、+3(Nさん)
    平均との差の二乗はそれぞれ、0(Lさん)、9(Mさん)、9(Nさん)
    平均との差の二乗の合計は18:0+9+9
    分散は6(18/3):標準偏差は約2.449(6の平方根)
     
  7. 偏差値の計算は以下の通り。標準得点(平均から、標準偏差いくつ分外れているか)を10倍する。例えば平均よりも標準偏差の2倍高い点を取っていたら、2×10=20とする。それからちょうど平均点をとった場合が50になるように、先ほどの点数に50を足す。つまり標準偏差2倍分、平均より点が高かった人の偏差値は70になる。現代、一般に使われる知能指数(偏差IQ)も同じ発想で計算される。代表的な偏差IQでは、平均との差を15倍する。つまり標準偏差の2倍ぶん平均から外れている場合は2×15=30となる。それから、ちょうど平均の人を100とする。つまり先ほどの値に100を足す。平均より標準偏差の2倍分、知能検査の点数が高い人の偏差IQは130ということになる。
  8. 簡単に書いたが、実際には標準偏差の計算などでもっと丁寧な配慮が必要である。詳しくは中村大輝(『心理学・教育学研究のための効果量入門』北大路書房、2025)を参照されたい。
  9. 素の効果量の方は非標準化効果量と呼ばれたりする。素のものの方が先にあるのに、「標準化されてない」と言われてしまうあたりにも、心理統計の現場における標準化効果量の重用ぶりを見ることができる。