みすず書房

新刊紹介

訳者あとがき(抄)

2026年10月20日

最近、「対話」という言葉を耳にする機会が多くなった気がする。そう感じた私(小野寺)は、国立国会図書館サーチ(NDLサーチ)で、「対話」という言葉がタイトルや章などに入っている本の数が過去100年程度どのように推移してきたのかを調べてみることにしました。出版点数全体の増加も考慮に入れる必要がありますので、あくまで参考程度のデータではありますが、その結果が下のグラフになります。

これを見ると、「対話」という言葉がいくつかの時期に急増していることが見て取れます。1947~48年の戦後直後、1967~68年の学生運動の時期、1992~93年の冷戦終結後の時期。人びとがこの言葉をどこまで意識して使っているかはさておき、やはり「対話」という概念は、社会における民主主義意識の高まりと密接な関係があるのでしょう。そして21世紀に入ってからは、二回ほど「山」があることがわかります。一つ目が2006年、二つ目が2017~18年。小泉政権から第一次安倍政権にかけての時期にこの言葉が頻繁に使われた理由ははっきりしませんが、後者については明確でしょう。この時期に学習指導要領が改訂・告示され、「主体的・対話的で深い学び」の推進が謳われたからです。この時期に刊行された図書には、このキーワードをタイトルに取り込んだものが少なくありません。その時期に比べれば近年はやや減少傾向とはいえ、2006年ごろのピークと遜色ないくらいの数を示しています。「対話」は今なお「バズワード」なのでしょう。

このように「対話」という言葉は社会に浸透しつつありますが、対話が実際に推進されているかといえば、どうもそうとは思えないというのが率直な印象です。「対話が大事だ」と口にしながら、実際には相手の言うことに耳を貸さず、一方通行になっている──そんな場面に、私たちは幾度となく遭遇してきました。そもそも、対話が現に行われているところでは、「対話が大事」とわざわざ言い立てる必要はないはずです。この言葉がこれほど連呼されること自体が、むしろ対話の不在や機能不全を物語っているのかもしれません。

ただ、厄介なのは、これが誰かの悪意の問題ではないということです。対話を説きながら対話的でないとき、当人にはたいていその自覚がありません。自分は誠実に対話しているつもりでいる。だからこそ、外からの批判も届かない。そしてこれは、他人事として指をさして済む話ではありません。「対話が大事」と言っているまさにそのときの自分の言動が対話的であるかどうかは、自分自身がいちばん見えないものだからです。訳者であるわれわれとて、例外ではないでしょう。

かくして「対話」がお題目として叫ばれながら、現実には対話がなかなか成立しない。しかも、2025年7月の参議院議員選挙で右派ポピュリズム政党が躍進を遂げ、分極化はますます深まるばかり。そんな閉塞感漂う今の社会で、果たして「対話」は可能なのか。可能だとすれば、どのようにしてか。そして、そのために私たちは何をする必要があるのか。多くの人びとにとって、切実な問題だと思います。

本書は、2015年の難民危機以降、社会の分極化が抜き差しならない局面に入りつつあるドイツで、対話がいかに困難なものとなっているか、「先達」としての経験とそれを乗り越えようとする模索のありようを生き生きと伝えるものとなっています。「先達」とはいっても、ドイツと日本では政治的な分極化のありようや制度的な前提は必ずしも同じではありません。それでも、直面する課題には、共通し、通底する点も少なくありません。そこから私たちはとくに大事なことを二つ学びました。まずは「相手をしっかりと見据える」こと。そして、自分を見つめて反省すること。


まず前者から見ていきましょう。「右派」という集合名詞は本書において、特定の政党を支持したり、特定の考えを擁護したりする人びとのことを指しているわけではありません。「右派の言語ゲーム」という語りのかたち、つまり「特定の規則に従って進行し、繰り返され、ある目標の達成をめざすコミュニケーション」を押しつけてくる人びとのことを指します。こうしたコミュニケーションの最大目標は、「被害者」のポジション取りにあります。自分たちは「左派」によって、「自然な発展」を阻害されている、承認を拒まれている、否定されているというポジションを確保することが自己目的化しているわけです。ですから、この言語ゲームはそもそもが「左派」という存在を前提としています。

そしてそこで必要になるのが「挑発」という行為です。「ヒトラーの時代だって悪いことばかりじゃなかった」「女性は家庭に戻れ」「外国人は出て行け」「○○人ファースト」「左翼は裏切り者」。これらの言葉を発すれば左派が激怒するということを、彼らはよくわかっているのです。そして多くの場合、左派は予想通り激怒し、彼らを強く批判します。そうすることで、左派のせいで自由にものが言えない、表現の自由が奪われている、自分たちは言論封殺の被害者だ、というポジションが思い通りに取れるわけです。ですから、これらの発言はそれ自体を意図しているというよりも、被害者ポジション取りのための言語ゲームに過ぎない、これが著者たちの重要なメッセージになります。「こちらが反論したり、こちらから攻撃を仕掛けたりすれば、彼らが無敵に見えるゲームに巻き込まれることになる。こちらが叩きのめせば、彼らは私たちの攻撃性の被害者を演じる。叩きのめせなければ、それは自分たちの強さの証拠、自分たちが正しいことの証拠だと解釈し、私たちを嘲笑するのです」。

C章では、彼らの行動様式がさらに詳細に分析されています。そこでは、円とその円周上の四つの点がイメージされています。まずは「主張点」。「イスラーム化がドイツ人としてのおれたちのアイデンティティを脅かしている」というようなことを自信たっぷりに断言する。そこで非右派が「そもそもドイツのアイデンティティとはいったい何なのですか。何がドイツ人をドイツ人にするのですか」などと、その根拠を問いただし続けると次第に居心地が悪くなり、「疑念点」へと移る。そこでは「自分の民族とのこれほど深い絆は、証明などできるものじゃない。つねに内側で感じるしかないんだ」という自分の実感、感覚に立てこもります。しかし、そこでなお論拠を問い詰められるとまた居心地が悪くなり、「膠着点」へと移動する。「ならおれたちはこう見る、おまえたちはそう見る。おまえたちにはおまえたちの意見があり、おれたちにはおれたちの意見がある。誰もが自分の真実を選ぶしかない。真実は複数形でしか存在しないんだ。そんなことはポストモダンだって言っている」という価値相対主義に籠城するのです。しかし、これは威勢の良かった当初の主張からはだいぶ後退した主張ではあるのですが、そのことを指摘すると、「異なる意見を認めないのはおまえたちのほうだ」と「非寛容」を指摘するようになります。しかしそこも居心地が悪くなると、最後に移るのが「漢(おとこ)の地点」(あるいは「兵舎」)、つまりは居直り。「主張から膠着へ、膠着から疑念へ、疑念からふたたび主張へ、主張から直接兵舎へ、兵舎から膠着へ、膠着から主張へ──あなた方の好きなように、そして対話相手が許すかぎり、自由に動き回ることができ」るというわけです。

だからこそ、彼らのもくろみが「闘争」や「抵抗」を演出することにあるという要点をきちんと理解したうえで、それに正当性を与えないような対策を講じる必要があります。まず大事なことは、挑発に乗らないということ、そして「お決まりの反応」を避けるということです。それによって、彼らの言語ゲームの「舞台装置係」に意図せずに引き込まれないようにするということです。さらに「敵を必要としている人間は避けよ」という黄金律も重要でしょう。こうした言語ゲームにおいては、彼らの自己演出につねに敵が必要とされているわけで、自ら進んでロールプレイを買って出る必要はさらさらありません。ただやみくもに対話すればよいというわけではなく、まずは「相手をしっかりと見据える」ことが重要だということ。これが本書の最も重要なメッセージの一つでしょう。

ですが、本書はそうした戦略的指南、右派の言語ゲームとどのようにつきあうのが得策なのかという議論に尽きるものではありません。本書は「非右派」にもさまざまな点で自省を迫る書物です(だからこそドイツでもさまざまな議論を呼んだのですが)。なぜなら、私たちが抱える問題は右派と非右派との関係性のなかで生じているのであり、したがってその原因は私たち自身が創り出してもいるからです。

まずA章で指摘されているのが、非右派が陥りがちな「道徳主義」です。「あってはならないことは、ありえない」という原則のもと、「右派思想」の気配を嗅ぎつけたとたんに攻撃に走る。その結果、「排除の一つひとつが、意図とは正反対の効果をもたらす」ことになります。彼らは無条件で「被害者」ポジションが取れるうえに、排除されたということ自体が「勲章」になってしまうからです。道徳主義の独善性は、「怒り。憤怒。嫌悪。唾棄。憎悪」といった激しい感情を相手に呼び起こすという指摘も、傾聴に値するでしょう。

B章では、左派に対して手厳しい指摘が並びます。まず、「敵に対して「ノー」と言うことしかできなくなって」しまった左派の弱体化が指摘されます。「相手と戦いながら、その相手の強みを自らのものとして吸収する」というかつての左派の強みが投げ出されてしまっているのが現状なのだと。また、アイデンティティ・ポリティクスに右派同様吞み込まれてしまってはいないか、ヒューマニズムに今こそ回帰すべきではないかという議論も、本書にかぎらず時折耳にするものではありますが、忘れてはいけないものでしょう。

そして、右派の言語ゲームがつねに「ノー」を必要としている以上、これに対して「ノー」を突きつけ続けるだけでは十分ではない、「イエス」を積極的に訴えていくべきだというのも本書の貴重なメッセージでしょう。右派の言語ゲームがおおむね「感覚」に依拠している以上、自分たちが意見を述べる際にはきちんと根拠を示すべきだ。他人に求めることを、自分でも実行せよ。いずれも、彼らと同じ過ちを犯さないために忘れるべきではないアドバイスでしょう(「笑いのない議論はよい議論ではない」という黄金律も、非常に印象的な助言です)。

ですが、本書は決して──「北風と太陽」の教訓のごとく──彼らを批判するなと言っているわけではありません。ましてや、彼らの意見を受け入れろと主張しているわけでもない。批判をすることはむしろ不可欠であり、右派に対する戦いが不要になるわけではないけれども、しかし批判や戦いと同時に対話をすることは可能なのだと、著者たちは論じています。この点はとくに重要です。日本の文脈では、「対話」重視の姿勢が調和を前提とし、批判をことさら忌避する態度とワンセットになっていることが非常に多いからです。批判すべき点は明確に批判し、反省すべき点はきちんと反省する。それこそが「対話」の前提のはずです。著者たちも指摘するように、そもそも「対話」というもの自体が、「おしゃべりする、交渉する、争う、誘惑する、治療のための会話をする、議論する、授業する、尋問する、インタビューする、討論する」といったように、きわめて多義的な実践の集合体なのです。

著者たちは序文で次のように述べています。

「私たちが言う「第三項」とは、固定された立場を意味するのではありません。それは二値的な図式を超えて開かれる純粋な「可能性000」の象徴です。その本質は「非決定性」にありますが、それは鬼火のように揺らめく自由主義の無関心や恣意に行き着くのではなく、多様性の保持に行き着く非決を意味します。第三項とは、他の場所を奪うことなく人が立ちうるすべての場所であり、他の行為を狭めることなく人が実行しうるすべての行為なのです」

本書が目指しているのは、まさにこうした「可能性」にほかなりません。右派とはこのように議論しなければいけないと指示しているわけではありません。SNS上では、右派との対話の仕方に何か「正解」があるかのような言説が横行しがちですが、そもそもそのような正解があるのなら、世界中で右派ポピュリズムがこれほどまでに勢力を拡大するということもなかったはずです。現在はみな途方に暮れ、どうしてよいかわからない状況なのだと思います。そのようななかで、「対話」をただの題目に終わらせることなく、あるべき対話について問い直し続けていくことが、いま必要なのではないでしょうか。

本書を読んでいくと、自分がいままでモヤモヤしていた人びとの言動の動機を言語化してくれてすっきりする箇所と、これまでの自分の言動について深く反省させられてしんみりする箇所の両方に、いたるところで遭遇することと思います。前者ももちろん重要なのですが、自分の言動について振り返り、静かに反省するきっかけとして活用するほうが、本書の「使い方」としては望ましいのかもしれません。反省したことを他人に向けてわざわざ発信する必要はないでしょう。「今後はできるだけこういう言動は控えよう」と、多くの人が心に誓い、実践することになれば、本書を訳出したことに十分な意味が見出せるのではないかと訳者としては思います。

遅ればせながら、ここで本書の成立経緯とドイツにおけるその出版の背景についても述べておきたいと思います。

―以降は本書でお読みください―

© Onodera Takuya and Nishiyama Akiyoshi
(筆者のご同意を得て抜粋転載しています)